サディスティックハーフムーン



「春依はいつも小悪魔な笑顔だな」
 翼が言った。校舎の外で喋っていた時のこと。翼の方は天使のような優しい笑顔を浮かべている。
「小悪魔というより、悪魔だ」
 そう見えるように笑ってるから、そう写る。
「春依はね、色々裏がありそう」
 普段の俺なら深い意味で捉えないのに、翼が言うと何か大きな意味がありそうな気がしてきた。
「裏しかない」
 精一杯軽口で返す。またその「小悪魔な笑顔」を浮かべながら。翼はまた天使のような綺麗な笑顔をこちらに向けている。
「君が一つ縛られてるそれから解放されたら、きっと素敵な悪魔さんだろうね」
「は?」
 俺は何となく意図がわかっているのにそう返した。
「春依の場合、聞いたところで何も言わないだろうし、聞かれたくないだろうし。だから基本的に深く追究する気はなかったんだけどね」
 俺はただ翼に冷たい目を向けた。
「春依はそのうち潰れちゃう気がして」
「心配なんかいらねーよ」
「言うと思った」
「じゃあ何も言わなきゃいい」
 俺はいつものように鋭く言った。
 翼はただ優しく笑う。何故だか気が楽なんだ。翼は俺の空気を察知してくれる。深入りしないでくれる。わかっててしないでくれる。
 でも、そんなことは翼に言わない。
「あれ、すずら先輩じゃない?」
 翼の目線の方向へ俺も向く。本当だ。すずらさんだ。
 すずらさんは男の人と話している。
「あ、桜先輩もやってきた」
 桜さんもやってきた。男の人がすずらさんに絡んでいるように見える。二人ともそれを追い払おうとしている。もしかして、すずらさんが言っていたストーカーだろうか。
 以前の夜中の独り言を思い出す。学校を突き止められたという独り言だ。
「嫌だって言ってんだろうが!」
 桜さんが男の人に蹴りを入れた。桜さんは最近、本当の姿を見せてくれることが増えた。
 俺は二人に近付こうとする。するとそれより速く翼が動き、男の人に近付いて、腕を捻り上げる。男の人は、抵抗しようと暴れるが全く敵わない。翼の方がずっと強かった。
「二度と、近付かないでくれます?」
 翼が低い声で言い放った。かなりの威圧感だった。男の人は、捻り上げられている手を痛がっている。
「今度やったら、通報ですかね」
 翼の剣幕は凄い。静かに怒気を放っている。男の人は、逃げていった。
「ありがとうございます」
 すずらさんが翼に向かって、深々と頭を下げる。翼は笑顔で答えている。すずらさんも桜さんも、翼の綺麗な顔立ちに驚いている。
「何かあったら、いつでも呼んで下さい。出来る限り助けに行きますから」
 翼の柔らかい笑顔。俺はこんな風に笑えない。何もかもになりきれない。

 別宅。今日のすみれさんはまた絵本を読んでいる。俺から見ても楽しそうに見えてきた。無表情だけど、楽しそうなのだ。
「すみれさん」
 呼びかけてみたら、顔を上げてくれた。茶色くて大きな目が俺をじっと見る。そしてまた絵本に視線を落とす。進歩だ。すみれさんが俺の言葉に反応してくれた。
 桜さんは今日も紅茶を入れてくれる。例えそれがパックでも。
 向日葵さんは椅子に座っている。すずらさんは、俺にまた翼へのお礼の伝言を頼んで、バイトへ行った。清々しそうな表情だった。
「うー。また知らない記憶が出てきたかも」
「はい?」
 向日葵さんは突然ふっと漏らした。動きが面白いのだが、これはいつものこと。
「ウチね。事故に遭って記憶喪失なんだよー。一部の記憶が抜けてるの」
 そんなことをすずらさんも話していた。
「どういう状況で事故に遭ったかも覚えてないし。学校のことも覚えてなかったんだよ」
「思い出したくないことなんじゃないですか?」
「うーん。周りが結構教えてくれないからそうなのかもな」
 向日葵さんは腕を組んで考える仕草をする。
「で、何の記憶が出てきたんですか?」
「怖かったからもう忘れる!」
 向日葵さんは、唇を尖らせた。そして、
「勉強してくる!」
 と言い残して、自分の部屋へと行ってしまった。俺の向かいに桜さんが座る。
「最近、桜さん素がよく出ますね」
「そうですかね?」
「自分を許せてきたんじゃないですか? 今までの桜さんは、ひたすら自分を消したがってるように見えましたもの」
「そう、ですかね?」
「何かありました?」
「私が泣いても喚いても、ずーさんがいてくれるんです。ずーさんじゃなくても、誰かしらがいてくれるんです」
 やはりすずらさん達を呼んでよかったのだ。
「地元の方はもう大丈夫だって。桜さんは自分を責めることはないんだよって」
 地元の情報操作をしたのは俺の力なのだが、敢えて桜さんには言わない。俺だけの力でもなかったし。地元の状況をすずらさん達に伝えておいたのも俺である。
「お兄さんも元気ですよ。伯父さんも伯母さんも」
 桜さんがじっと大きな目でこちらを見つめる。気になっていたのだろう。
「何で知ってるんですか?」
「俺ですから」
「そうですか」
 納得された。
 もう桜さんには帰る場所がある。そして桜さん自身も自分を取り戻し始めている。俺はあれから何度桜さんの笑顔を見ただろう。出会った時からは想像できない、桜さんの笑顔。
「帰りますか?」
 ふと自然に出てきた言葉。
「帰ってみます」
 桜さんは俯きながらもはっきり言った。

 もう、俺なんかいなくても大丈夫。


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