サディスティックハーフムーン



 向日葵さんが、別宅の見学にやってきた。すみれさんはきょとんと眺めている。桜さんとは、ここに来る以前からも何度か会っていたらしい。既に打ち解けている。桜さんは、すずらさんが一緒に住むようになってから、時々笑うようになった。向日葵さんの前でも笑顔だ。
「は、初めまして! この子がすみれか!」
 向日葵さんは何か元気な人だ。髪はショートカット。そして小動物のようだ。喋り方も独特な感じがする。
 話しかけられたすみれさんは、向日葵さんをじっと眺めている。向日葵さんも背が低いから、すみれさんと目線が変わらない。
「すみれちゃん審査は突破ですね」
 桜さんが言った。すみれさんは向日葵さんになついているらしい。そして桜さんはまた紅茶を入れるために台所へ行った。
「すみれ可愛いでしょー」
 今日もすずらさんはまったり。楽しそうに過ごしている。すみれさんは向日葵さんの袖を引いてベッドへ連れて行く。そしてベッドの上の枕を一つ、向日葵さんに差し出す。
「何か、向日葵はすみれの遊び相手みたいだな」
 すずらさんが言う。桜さんもポットを傾けながら、こっちを向いている。
「向日葵のことは同じ目線で見ているんですね」
「もう、何だよー! ウチだけ遊び仲間扱い!?」
 向日葵さんは元気な人だ。そしてもうここに馴染んでいる。
「いいよ! 遊んでやるよ。すみれの面倒見てやるよー」
 向日葵さんもすみれさんのことが好きになったみたいだ。そしてここの別宅も。
 これで、全ては揃ったのだろうか。ここを仕切るしっかり者の桜さん。時々折れてしまいそうになる桜さんを、支えるすずらさん。みんなが守らなければならない、みんなを必要とするすみれさん。いつもすみれさんの側にいることのできる向日葵さん。
 この別宅。俺がいる時は、真っ白で、真っ黒で、何もない空間だった。ただ、俺の無感情だけが横たわっていて、俺が消えてしまうまでのカウントダウンの音だけが響いていた。
 それが今は、この空間が綺麗に色づいている。楽しげなリズムで溢れている。
 そして桜さんは、着実に自分のいた世界に戻ってきている。笑顔を思い出している。俺みたいに冷めて空っぽだった心に、今ならたくさんのものが満たされ始めている。
 俺は、少しずつ生き返っていく桜さんをずっと見守っていた。ずっとずっと見守っていた。
 頭の中で、カウントダウンの音を聞きながら。相変わらず頭の中の視界に入ってくる、死んだ少年を蹴り飛ばしながら。

 すみれさんが枕の代わりに向日葵さんを抱いている。
「何で枕にされなきゃいけないんだよー」
 向日葵さんは叫んでいる。すずらさんは、それを笑顔で見守っている。
 桜さんと俺は、いつものテーブルで話している。
「実家には、帰らないんですか? 連絡とかでも」
 ふと俺は切り出してみた。もう一年以上連絡していない。すずらさん以外の友達に連絡している様子も全くない。
 桜さんが黙り込んでテーブルを見つめるから、俺は何も言えなくなった。
「君は実家に帰ってるんですか?」
 突然目線を俺に戻して桜さんは尋ねてくる。
「一応、時々」
 今度は俺が目線を落とす。
 すみれさんが向日葵さんから離れて、二階へてちてちと行こうとする。向日葵さんとすずらさんはそれを追う。すみれさんは突然立ち止まったと思ったら、誰もいない方向を向いて手招きする。
「交流ですか?」
 俺は桜さんに問う。
「交流ですね」
 桜さんも階段の方を見ながら答える。すみれさん達は二階へと行った。
 そして、ピアノの音色が聞こえてくる。今日は聞いた感じ、クラシックではないらしい。
「すみれちゃんは、聞いた音楽をピアノで弾けるんです」
「それってかなり凄いじゃないですか」
 続いて聞こえてきた曲に、俺の時が止まった。
「この曲……」
「時々すみれちゃんが弾く曲ですね」
「何で弾けるんですか!?」
「CD積んであったじゃないですか。隠すかのように」
 心臓が止まったかと思ったが、早鐘を打っているのがわかる。
「いつのまに聴いてたんですか」
「春依君が好きな音楽というのが気になったんです」
「よく、見つけましたね」
「歌ってみてくれませんか?」
「何でですか」
「みんな、君の歌が聴きたいと思ってるんですよ」
 いつものように冷たい、刺すような視線を桜さんに向ける。
「CD見つけたのも、聴いてたのもすみれちゃんです」
「本当によく見つけましたね」
「すみれちゃんは誰と交流してるんでしょうね」
 俺は思考を止めた。それ以上は何も考えたくない。考えてしまったら、気付いてしまう。
 後の行動は、また直感的だった。俺はピアノの元へ行った。すみれさんは次の曲を弾き始めた。この曲も、俺の好きな曲。
 自然と口ずさんでいた。ピアノが、綺麗にぴたりと歌に溶け込む。
 最後まで歌ってしまって、俺はまた放心状態になった。
「春依君、凄く上手いねぇ!」
 すずらさんと向日葵さんがのんびり話している。すみれさんはピアノの椅子に座ったまま交流を始めた。
 俺はふと思い至って、すみれさんに話しかけてみる。すみれさんが俺の言葉に反応してくれたことはないのだけど。
 すみれさんはこっちを見ない。交流中だ。やっぱり反応はしないか、と思っていたら、すみれさんはピアノにまた向き直った。
 すみれさんのピアノが再会する。今度は俺も歌うつもりで耳を傾ける。元の曲は、ロックバラード。ピアノで聴くと、本当に綺麗なメロディだ。俺も、歌い始める。
 桜さんが、二階まで走って来た。驚いたようにこちらを見ている。
 俺は、すみれさんに桜さんがいつも聴いている曲をリクエストした。仕返しなのか、歌ってあげたかったのか、自分にもわからないけど。歌わせてもらった。
 歌い終わったら、桜さんがぽつりと言った。
「ちょっとは、頑張ってみてもいい」
 地元に帰ることか、元の自分に戻ることか、外へと向かっていくことか。それはわからないけど。桜さんは、今までよりも勢いをつけて立ち直っていくのだ。と思った。

 帰ろうとした時、外では雨が降っていた。さらさらと音をたてて、視界全てを濡らしていく。梅雨の湿った空気が肌に届く。傘を借りようと思い、桜さんの元へ行った。そして無事傘を借りて戻ってきたら、この豪雨。傘を借りる会話をしている時点で、窓を叩きつける激しい雨音は聞こえていた。

 借りた傘を持って、ドアを開けて、外に出る。差してみた傘は全く役割を果たしていない。強風までもが吹いてきて、むしろ傘は飛ばされそうだ。

 それでも進もうとしていたら、ドアが開いて玄関から桜さんの声が聞こえてきた。
「春依君、この雨の中帰るんですか?」
「別に濡れても構いませんから」
「私の傘はどうなるんですか」
「じゃあ、返しますよ」
「風邪引いてここに来るつもりですか?」
「はい?」
「すみれちゃんに移されちゃ困りますねぇ」
「…………」
「風邪引かない自信とかあるんですか? ないですよね。この前も風邪気味になってましたもんね」
「……じゃあ、どうしろっていうんですか」
「泊まっていきます? つーか泊まっていきなさい」
 桜さんの気迫に俺は押された。最近は着いてこなくなった二人組みは、アパートで待っている。連絡をいれ、仕方なく俺は別宅に泊まることにした。玄関に入ったら、相変わらず笑顔のすずらさんにタオルを渡された。

「シャワー浴びてこい!」
 と風呂場にぶち込まれた。風邪を引く訳にもいかないので、シャワーを浴びる。
 いつものように熱いお湯を、最高出力で出して流す。自分の体には目を落とさない。義務的に、機械的に体をシャワーで流す。全ては短時間で済まされる行動だ。
 脱衣所に出て、服に着替えようとする。別宅に置いておいたのを引っ張り出した服だ。黒い薄手の長袖シャツ、黒いジーパン。黒い上着といつもの手袋がない。薄い赤色で細いフレームの眼鏡をかける。風呂場にいた時、誰かが脱衣所に入ってきたことを思い出す。
「俺の手袋知りません?」
「ごめん。借りた」
「借りたというより、パクってみました。悪戯ですね」
 桜さんと向日葵さんがまた全然悪びれずに言った。俺は手袋をした左手を差し出す。
「返して下さい」
「え、何で手袋してるの」
「スペアですよ」
「でもさすがに上着のスペアはないんですね」
「さすがに上着を隠す場所はなかったですね」
「何でそんな暑そうな格好なの?」
 桜さんと向日葵さんと俺の、次々出される言葉。向日葵さんの問いに俺は一瞬言葉を止めた。
「別にいいじゃないですか」
 考えた一瞬で、思いついた言葉はそれだけだった。

 すずらさんの呼ぶ声で目を覚ます。
「春依君! 春依!」
 すずらさんは、俺を揺り起こしている。予想外に早く起きたからだろう。すずらさんは若干驚いている。俺は、ソファーで寝かせてもらっていた。身を起こして、眼鏡をかける。
「まだ夜中じゃないっすか」
「すみれが私を呼びに来てね。春依君のとこまで連れてこられたんだよ」
「すみれさん起きてたんですか?」
「何でかはわからないけど、起きちゃったみたい」
「何故俺のところにすみれさんは来て、俺はあなたに起こされてるんですか?」
「何か春依君、うなされてたから」
「寝言でも言ってましたか?」
「言ってたね。自分の名前を呼びながらうなされてるのは、初めて見た」
 すずらさんは笑う。俺は片手で目を覆う。確かに俺は、悪夢を見ていた。
「春依は美人だなー」
「はぁ?」
 唐突に現れて、唐突に言い出すのは向日葵さん。
「何であなたまで起きてるんですか」
「私はお腹が空いたからだ!」
 意味がわからない。全くわからない。
「最近学校にヤツが現れ始めたんだよ……私も寝つけてないのかも」
 声がしたので、顔を上げてすずらさんの方を見る。
 何か言おうとしたら、すずらさんの声が聞こえてなかった向日葵さんが話し出す。
「夜中に食べたら体に悪いから、水でも飲んで寝るかー」
「そうしてください」
 すずらさんは、さっきの言葉などなかったように微笑んでいる。
 何か言おうとした言葉が話せなくなった。わざわざ蒸し返すのも悪い気がした。
 俺が起きた時には、すみれさんは寝ていた。すずらさんも向日葵さんも二階にある自分の部屋へと戻っていった。桜さんは自分の部屋にいるのだろう。寝ているかはわからない。
 俺は、それから朝までずっと起きていた。寝付けなかった。雨は、段々と勢いをなくしていっていた。


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