サディスティックハーフムーン



 俺は、別宅のリビングで英語の予習をしていた。桜さんは病院に行っていた。まだ通院中なのだ。
「いたんですか。ただいま」
 桜さんが帰ってきたようだ。
「予習ですか?」
「はい。和訳は完全に他から写してますが」
「頭良いのにですか?」
「頭良いから悪賢い裏の手段を使うんです」
「君には友達がいるんですか……?」
「いるように見えますか?」
「いないんですか!?」
「最低限はいますよ」
 ある一件以来、俺は友達とは最低限の付き合いしかしなくなった。友達も皆、最近の俺を見て「変わった」と言っている。
「で、病院はどうだったんですか?」
 桜さんは、俺の向かいに座る。そして入院していた時に知り合った人の話から始めた。

 桜さんが入院していて、現在は通院している病院に、ある女の子が入院しているという。
 大怪我をしているところを保護したものの、身元がわからないらしい。本人は一言も話さない。全く声を発さないという。表情も変えない。何を話しかけても、何をしても無反応。食事を出すと、一応食べるらしい。そしてその女の子はとても綺麗な顔をしている。完全に人形のような女の子なのだ。桜さんの知り合いは、きっかけがあってその女の子を見た。あまりにも可愛かったらしく、桜さんにもお見舞いを勧めたのだ。女の子に知り合いはもちろんいないからだ。
 そして桜さんはお見舞いに行った。成り行きで個室に二人きりになってしまった。桜さんが見ても、女の子はとても可愛らしい外見だった。そして挨拶をして帰ろうとした時、女の子に服の袖を掴まれたのだ。いつも焦点が合っていなかった女の子の目が、真っ直ぐと桜さんを捉えていて、その瞳に微かな光が宿っていたそうだ。
 桜さんは驚いて、看護師を呼んだ。そして看護師も医者も驚いた。女の子が人に対してここまで反応を示すのは始めてだったのだ。
 女の子の方は、桜さんの方だけをじっと見つめて、服の袖から手を離そうとしなかった。
もちろんその女の子に引き取り手はいない。桜さんは、女の子を引き取ってもらえないかと持ち掛けられたらしい。

「困りました。私も面倒を見てもらっている身なのでね」
 俺はすぐに返した。
「引き取っちゃえばいいじゃないですか」
「はい?」
「別に一人増えたくらい、ウチは簡単に養えますよ」
「私もずっと家にいるわけじゃないし……」
「いつも俺についてくる二人組みが面倒見てくれますって。俺に構ってもらえなくて暇なんですから」
 俺は廊下の方を一瞥して言う。廊下の方で気配がする。――やっぱり今日も来ていたか。
 唐突に窓を開け、外に向かって俺が先程まで飲んでいたペットボトルを投げた。
「……春依様! いつからお気付きに?」
 桜さんが外からの声に驚いた。窓の外に人がいたことにも、とても驚いている。
「彼らはお庭番と名乗るボディーガードです。日本刀を持ってるらしいので、迂闊に近づかないで下さいね」
「は、はぁ」
 こうして、別宅に一人の女の子がやってきた。
 その女の子は桜さんがいないと生きていけない。そうしたら桜さんだって、死ぬことを考えないだろう。という俺の簡単な考えだった。
 桜さんはその女の子に、純玲(すみれ)という名前をつけた。

 すみれさんがやってきた。外も冷たい空気に満たされている日にやってきた。すみれさんはベージュのワンピースと紺色のコートを着ていて、七分丈のジーンズをはいている。ストレートの髪が肩より少し長めだ。背は低い。そして幼い顔をしている。とは言え、年は俺達と変わらないらしい。正確な年齢は誰も知らない。茶色く大きな目に色素の薄い髪と肌。整った顔立ち。これは可愛い。
「こんにちは」
 話しかけても、すみれさんは桜さんの後ろにぴったりくっついたままだ。俺がすみれさんから目を離した途端、すみれさんはリビングに設置したベッドの元へ駆けて行った。よちよちと。ベッドの上に置いてある、枕を抱き締めてそのまま動かない。
「やっぱり俺にはなつきませんかね?」
「なつくと思ってたんですか?」
「いえ全く」
「すみれちゃん、完全に春依君スルーでしたね」
 すみれさんは動かない。本当に人形のようだ。いつでも桜さんの目が届くように、リビングにすみれさんのベッドを置いた。
すみれさんは枕を抱いたまま、真っ直ぐ前を見つめ始めた。誰かがそこにいるかのように、体を揺らしている。
「あれ、すみれちゃんが動いてる」
 桜さんが不思議そうな声を出す。すみれさんが桜さん以外に対して反応することなど、全くなかったのだ。
「どうしたんですかね?」
「誰かに話しかけてるみたいですけどね」
「誰にですか?」
「私達には見えない誰かにですかね」
 唖然としている俺達を全く気にもせず、すみれさんは枕を置いて寝転がった。そしてまた動かない。
「疲れちゃったんですね」
「桜さんは何でそう、すみれさんを把握できるんですか?」
「知りません」
 そう言う桜さんは微笑んでいた。初めて見る、微笑みだった。

 すみれさんは、俺がいる時いつも桜さんの後ろにくっついている(しかし桜さんとすみれさんの身長差は五センチ程)か、ベッドで寝ている。桜さんに対しては、言われたことに反応し、自分からも何らかの意思表示をするようになってきたらしい。そして相変わらず誰もいない方向を見つめている時がある。
「また何処か見てますよ」
「すみれちゃんは交流中です」

 普段寝付けない俺が珍しくソファーで眠りに落ちていた時のこと。上着の袖を引かれる感覚がして、目を覚ました。やはりすぐに、ちょっとのことで目を覚ましてしまう。
眼鏡をかけたまま寝てしまったようだ。目を開けるとそこには、袖を引くすみれさんの姿があった。俺が起きても、変わった様子なく袖を引き続ける。

「どうしたんですか?」
 身を起こして、すみれさんの方を見る。すみれさんはこっちを見ずに袖を引いている。ソファーの高さに合わせてしゃがんでいたすみれさんが、袖を掴んだまま突然立ち上がる。その動きに逆らわず、俺も立ち上がる。するとすみれさんは俺の袖を引っ張って、何処かへ連れて行こうとする。桜さんの寝室へと引っ張られていく。
 桜さんの部屋から物音がする。すすり泣く声も聞こえる気がする。すみれさんは扉の前でまだ袖を引き続ける。
 俺が扉を開けると同時に、デジタル時計が飛んでくる。突然のことに避けきれなかった俺のみぞおちに、時計が直撃する。ごとりと落ちる時計。俺は一瞬意識が飛んで、胸を押さえてよろけた。すみれさんはそんな俺に構わず、まだ袖を引く。桜さんの方へ。乱雑になった部屋の隅で泣いている桜さんの方へ。そしてすみれさんは桜さんの方へ、とてとてと駆け寄った。
「ありがとう」
 桜さんは未だ涙を流しながらすみれさんをぎゅっと抱き締めた。そして桜さんはまだ胸を押さえている俺の方を見る。
「……すいません」
「平気ですよこれくらい。慣れてますから」
「……慣れてる?」
 桜さんがきょとんとしている。俺はそれに答えない。
「すみれちゃん、寝ちゃいました。ベッドまで運んでもらえますか?」
 桜さんがすみれさんを抱き締めたまま言った。

 すみれさんを背負ってリビングへと戻り、ベッドに寝かせる。
 桜さんの方は、椅子に座ったまま呆然としていた。
 俺はホットミルクを二つ入れて、桜さんの前と俺の前に置く。桜さんが話し出す。
「まだ、突然怖くなるんです。思い出して。嫌で嫌で、怖くて怖くて、仕方なくなるんです」
 何となく気持ちはわかる。
「体に……あの時の傷がまだ残ってるんです。自分が気持ち悪いものに思えてしまうんです。傷は見えないところにあるんで、それはまだいいんですが……」
 俺はいつもの手袋を右手で握る。黒々とした塊が肺を圧迫していく。息が苦しい。
「……すいませんでした」
 自分でも声が少し震えたのがわかった。
「あの、春依君は何も悪くないですから」
桜さんが慌てている。
「春依君のことを責めたかったわけじゃないですから!」
「わかってます」
 俺は静かに言った。桜さんはふと思い出したように、一枚の写真を俺に差し出す。
「これ。すみれちゃんが拾ったみたいで、私に渡してきました」
 その写真には、学校の制服を着た人が写っている。
「この人、春依君……じゃないですよね?」
写真の人は、こっちに向かってニカっと可愛らしく微笑んでいる。
「それは二番目の兄の遥亮です。双子の兄ですよ」
「……男の人!?」
「女の子のような顔でしょ? 俺と同じで。ボーイッシュな女の子みたいとよく言われたものです」
「お兄さん、いたんですか」
「いませんよ」
 桜さんが怪訝そうな顔をする。
「のたれ死にましたよ」
 俺は吐き捨てる。桜さんは首を傾げている。そして俺の空気を察したのか、それ以上何も触れてこなかった。写真は、時々俺が眺めているものだった。眺めた後に寝てしまったのだろう。
 それからしばらく無言だった。黙ってホットミルクを飲んでいた。桜さんはふと俺に言った。
「最近、すみれちゃんがクロとも遊ぶようになったんですよ」
「良かったですね」
 桜さんがまた嬉しそうにするから。俺まで少し嬉しくなった。
 おぞましい記憶に縛られる桜さんを、少しずつでもすみれさんが明るい方へ導いてくれれば、と思った。
 しかし、まだ俺がいなくては駄目なのだ。それではいけない。いけないんだ。
 俺は、左手の黒い手袋をただ見つめた。


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