サディスティックハーフムーン



 彼女は「桜」と名乗った。桜さんは、俺の別宅に住むことになった。
 一応二階建てだが、主に一階に住んでもらう。玄関を入って、次の扉の先には広いリビングがある。廊下を渡った先には、他にも部屋がいくつかある。
 俺は、その別宅の近くにあるアパートに住むことにした。あの二人組みもついてきた。そしてまた俺の世話を焼こうとしていた。追い払っても無駄なので、仕方なく世話をしてもらっていた。
 学校は一応行っていた。学校が終わってからは、出来る限り桜さんの元にいた。学校がある時は、二人組みに様子見を頼んだ。
 別宅に行くと、桜さんは無言で紅茶を入れてくれる。二人分入れて、静かにテーブルに置く。
 桜さんはいつでも無表情。俺の方が年下なのに敬語を使う。本当の桜さんはきっとこんな人ではない。以前の自分を捨てようとしているんだ。それでも、少しずつ俺に自分のことを話してくれるようになった。喋るのが好きなのだろう。それは隠せないようだ。そして一人ぼっちの彼女は、他に話す相手がいないのだろう。
「春依君は受験生ですよね? いつもここに来ていて平気なんですか?」
「あぁ。大学ならもう指定校推薦で決まりましたよ」
 桜さんが行っている大学と、同じ大学の入学が決まった。桜さんと同じ、文学部だ。桜さんの様子を見るという理由も大きいが、本当はもう一つ理由がある。
「何かもの凄く腹立ちますね」
「桜さんだって指定校推薦じゃないですか」
 桜さんがクスクスと笑い始める。いや、これはクスクスというよりフッフッフ、である。悪戯に成功した子供みたいに笑う。
 時折そんな一面を桜さんが見せたら、本当の桜さんの姿が垣間見えたのだと思っている。
 そんな時以外は、何も感じないかのように冷たく、無表情に振舞う。服はやはり黒い。
 部屋の端を黒猫が歩いていく。桜さんが拾ってきたらしい。桜さんは無類の猫好きだ。そして無類の猫好きである彼女は、その黒猫に「クロ」という単純な名前をつけた。
 彼女には両親がいないらしい。彼女が四歳の時、交通事故にあったという。彼女も一緒に事故に遭ってしまい、一人生き残ったのだ。路頭に迷う彼女と彼女の兄を、父親の兄、要は彼女の伯父が引き取った。伯父には子供がいなく、喜んで引き取ったという。そして金もたくさん持ち合わせていた。思わず俺は言ったものだ。
「桜さんって、金持ちの人と縁があるんですか?」
「さあ?」
「桜さんはお嬢様育ちなんですか?」
「そう見えます?」
「見えません」
「庶民的に育ちました」
「俺と一緒ですね」
 俺も、普通の家の子供と同じように育った。そういう方針だった。バイトはしたことがないが、電車ならよく乗る。
 桜さんは大学に行きながら、ビタースイートという喫茶店でバイトをしているらしい。接客はどうしても無理なので、調理場に立つという。桜さんは料理が得意だ。
 そんな生い立ちも、最近のことも話してくれた。何故そんなに話してくれるかと尋ねたところ、暇だから、と一言答えられた。
 学校が終わってからは、こうして桜さんと二人で過ごしていた。桜さんが生きるのをやめないように、見張っていた。

 夜。眠れなくなった俺は桜さんの部屋に侵入した。桜さんは寝苦しそうにしている。ベッドの枕元には、俺が買わせた携帯、と何故かカッターナイフ。
 まだ夜明けまで長いので、桜さんの寝顔を眺めていた。桜さんは未だに睡眠導入剤を使っている。服薬自殺をされたら困るので、こちらで勝手に薬を管理させてもらっている。
 何となく、桜さんの唇を親指で拭う。触れてしまって申し訳なくなったから、と思った。桜さんが呻きながら薄目を開ける。起こしてしまったか? と思う間もなく、桜さんは勢いよく起き上がって枕元のカッターを掴んで刃を出す。
 自分の身の危険を感じた俺は、慌てて桜さんからカッターを奪う。
 カッターを部屋の隅に投げて、桜さんの両肩を掴んだ。
「俺ですよ?」
「離せ!」
 一瞬、また本当の桜さんが見えた。
「俺は春依ですって!」
 桜さんの目が真っ直ぐこちらを向いた。目が潤んでいた。ハッとしたような表情をして、視線を下に落とした。そしてぽつりと言葉を漏らす。
「すいません」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「何で枕元にカッターなんかあるんですか? 護身用ですか?」
「何だっていいじゃないですか」
 潤んでいる目から涙が流れた。俺は、黒い上着のポケットから小さいハンドタオルを出して、桜さんに渡した。
「ありがとう。……何かもの凄く可愛いタオルですね」
「悪いですか?」
「い、いいんじゃないですか? 携帯もピンクですし」
 桜さんはようやく普段通りに戻ったようだ。
 まだ一人にはできない。まだ彼女は一人だ。寝付けない夜を毎晩一人で過ごしているのだ。さすがに俺だって侵入なんてそうそうしない。
 俺達の声が聞こえたのか、部屋の外からクロの鳴き声がした。


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