サディスティックハーフムーン


2、Harui


 俺は、駅の中を散歩していた。まともに外に出るのは久しぶりだろうか。家の中で一人死んだように、魂が抜けたかのように過ごしていた。周りのことは、いつも側にいる付き人というか目付け役の二人組みがやってくれていた。本当は断ったのだが、二人は俺を心配して世話をしてくれた。本心としては、一人であのまま死んでしまいたかった。
 何となく、一人の女の人が目に入った。知っている人だった。以前、山の麓で大怪我しているところを俺が助けたのだ。その時の彼女とは、雰囲気が違っていた。黒い髪は、少し茶色がかったロングヘアーになっていた。黒くて長いワンピースを着ている。それにしても、あの怪我からこんなに早く復活できるのだろうか。心なしかよろよろと歩いているようにも見える。眺めていた彼女が突然ふらついた。俺は駆け寄った。また、助けることになってしまった。

 暗い病院の個室。カーテンは閉めている。個室には俺と彼女の二人きり。静けさだけが耳につく。彼女の家族等の連絡先は見つからなかった。携帯を探してみたが何処にもなく。手帳の姿も何処にもなく。
彼女が目を覚ます。びっくりしたように俺の方を見ている。
「古都野、春依です」
 静かに名乗ってみる。彼女の方は頷くだけで、何も言わなかった。
 試しに、以前助けた時に知った名前で呼んでみた。彼女は答えない。
 しばらく彼女を見つめたまま黙っていた。すると、彼女の方から突然そっと声が漏れた。
「人違いじゃないですか?」
「前と同じ場所に同じ傷がありますけど?」
「よく覚えてますね」
「インパクトが強かったもので」
 俺は鋭く言葉をぶつける。彼女の方も目が覚めたばかりなのにすぐに頭が回るらしく、それなりに速い返答を返してきた。
「でも人違いですよ」
「じゃあ、どちら様で?」
 彼女はまた俺をじっと見つめる。俺もまた彼女を少し睨むように見つめる。その間の後に彼女がまた呟くように名乗った名前は、知っていた名前ではなかった。
 その後、勝手ながら彼女に関して調べさせてもらった。手段を問われたら困るのだが、その方面に関しては俺本人も得意分野である。
 やはり彼女は地元を抜け出してきたようだ。簡単に言ってしまえば家出だ。ある事件が地元の中で誤解を呼び、広まっていた。彼女の居場所はなくなったのだろう。そして事件を起こし、彼女を追いつめたのは。

「俺の兄貴なんですよ。知ってるかもしれませんが」
「…………」
「なんか重病にかかってから暴力的になったみたいで」
「…………」
「大丈夫ですよ。あなたを襲った後、ぱたっと死にましたから。全く重病人のくせに暴れるから」
 彼女は、押し殺したような感情を放たない。静かに目線を手元に落としている。黙って親指を引っ掻いている。俺の方も左手の手袋を意味もなく引っ張る。彼女は、ふと思い出したかのようにこちらを向いた。
「俺って言ってますけど、女の方ですよね?」
「よく声で間違われますけど男ですよ」
 彼女は首を傾げる。俺は黙ってそれを見つめる。
「やっぱり、偽名ですよね?」
 彼女が名乗った名前について指摘する。彼女は目を逸らして何も答えない。
「それで。家を出て、そんな体で偽名使ってどうやって暮らすつもりなんですか?」
 鋭く発した言葉を投げつける。
「大学も、決まってるんですよね? 四月には入学するんですよね。一人でどうしようっていうんですか?」
 彼女は何も答えない。
 俺はわかっていた。彼女はここで死ぬつもりなのだと。死んでもいいと思っていたのだと。
 全てから逃げ出してきた。きっと家族にも知り合いにも迷惑がかかったことに耐えられなかったのだろう。
「自分なんて消えればいいと?」
 また言葉を投げつける。
「別人として生きられないなら死んでしまおうと?」
 手元にある言葉の刃は尽きない。
 彼女は何も答えない。俺はとっておいた切り札を出す。
「ここの近くに、俺の家の別宅があるんですよ。今、俺はそこに住んでるんですけど。大学もそこからなら近いですし。別に家賃タダでいいですし」

 言葉を区切って、彼女を見る。聞いているのか聞いていないのかは、よくわからない。
「何なら生活費こっちで全部出してもいいんですよ。金ならあり余ってますから」
 こういう時に、金持ちの権力を使うのだろう。普段は全く使わないのに。
「俺と一緒に住めとかいいませんよ。俺は何処にでも行けますし。どうします?」
 彼女は案の定首を縦に振らない。目を逸らして、何も答えない。
「一応、表向きならその名前使って暮らせるようにもできますよ」
 こういう時に、持ち合わせている権力というのを使うのだろう。普段は……使わないとは言い切れない。
「どうします?」
 彼女は微動だにしない。彼女が簡単に受け入れてくれるはずないのは、最初からよくわかっていた。それでも俺は、どうしても俺は。
 彼女の口を片手で塞ぎながら、ベッドに飛び乗った。彼女の腕を押さえるように跨った。口を塞いでいた手を退かして、露わになった唇に自分の唇をそっと押し当てた。また彼女の口を手で強く塞ぐ。反撃する隙なんか与えずに。
「このまま続けても?」
 続行の是非を問う。驚きと少しの恐怖が入り混じった目で彼女はこちらを見ていて、必死の抵抗を試みている。塞いだ口からくぐもった悲鳴が漏れる。パニックを起こし始めたようだ。なりふり構わない暴れ方をしている。彼女の目からは溢れるように涙が流れている。
「ちゃんと生きてくれますか?」
 これは脅迫だ。俺の精一杯の脅迫だ。首を絞めてしまう等の命を奪おうとする行為に、彼女は抵抗しないだろう。殺してもらえるなら、殺してもらうのだ。
 だから俺はこの手段を選んだ。思いついた唯一の暴力だった。
「やっぱり続けますか?」
 語勢を強めて問う。彼女が冷静な判断を下せなくなっているのはよくわかってる。わかってるから有無を言わせない。
 彼女は勢いよく首を横に振る。彼女の呼吸が激しく乱れているのを、不規則に上下する体から感じていた。
「言う事聞いてくれますね?」
 彼女は疲れたのか、放心状態になってしまった。何処にも焦点が合っていない目を上に向けたまま、彼女はようやく肯定した。
 俺はそっと彼女から降りて、黙ってその個室を出た。廊下には人影が何故かなく、一つの部屋で起こっていた小さな嵐を誰も知らなかった。
 ぷつり、と小さな音がして、俺の中で張られていた、たくさんの糸の中から一本が切れた。
 壁に鈍い音を立てて後頭部をぶつけ、そのまま壁にもたれながらしゃがみ込む。
 心の中に死んでいる一人の少年の姿を見つけ、それも脳内で蹴り飛ばして何処かへやった。
 いつまでもそこでしゃがみ込んでいた。少し目を上の方へと向けて、壁に背を預けていた。
 どれだけの時が経ったのだろう。静かな病院に微かな声が流れてきた。
「素直に『生きててほしい』って言えばいいのに」
 彼女の声。
「聞こえてますよ」
 俺は誰に言うでもなく、呟いた。

 俺は、生きることにした。彼女を生かすために、死なないことにした。


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