サディスティックハーフムーン


Opening

 彼女との出会いは衝撃的だった。印象的なものだった。運命的とさえ表現したい。
 木々が生い茂る山の麓。その時は必死で、ともかく焦っていたのに。そんな心情が一気に吹っ飛ばされた。
 自分より少し年上であろう女の子が、体を必死に引き摺りながら山を出てきた。
 這うようにして進んでいた。服は破れて、血に染まっていた。
 ミディアムボブの髪は乱れて、伏せている顔も汚れていた。すぐに死んでもおかしくないと思った。
 駆け寄ろうとした時、彼女は顔を上げた。
 そして、目が合った。
 あぁ、青天の霹靂。
 生気を完全に失った表情の中に、ただ一つはめられていた強い目というパーツ。
 瞳の奥に揺るがない、強い光を見たような気がした。少したれ目で黒目がち、睨んだような視線。
 感情は全て何処かへ持っていかれ、一瞬放心状態になった。
 あの一瞬でシャッターが押され、写された写真は今でも自分の心の中に映し出せる。
 大きな怪我をしている人を見たという状況ではなく、ただ彼女の強い眼差しに気圧された。
 その一瞬の後、彼女は力尽きたように倒れた。駆け寄ってそっと抱き起こしてみた。
 閉じた目、睫毛が綺麗に長い。現実感はまるで湧かなかった。この時、もっと大変なことが起こっているなんて考えも湧かなかった。
 それが彼女との出会いだった。

1、Haruaki

 こんなことになって、数ヶ月になる。長くて長い数ヶ月。
 また背中を蹴り飛ばされた。無抵抗に倒れこむ。抵抗できる力がないんじゃない。無抵抗にされた理由があるのだ。
 主に相手は鉄パイプ等の道具を使って、俺をしこたま痛めつける。
 自分の身を起こさないでいると、声が飛んできた。
「ハルア。まだ終わらないからな」
「そんなことわかってる。この暴漢が」
 悪態だけは精一杯つく。脅されている事実も、それに抵抗できない事実も屈辱的で耐えていられない。
「ハルイは俺にこんなことされたら、どんな顔するだろうな」
 相手は俺の妹の名を出して、俺に向かって笑う。蔑むような笑顔。
 相手は俺の兄であるが、外見に似ているところはあまり見受けられない。
 兄は自分の妹でもある春依(はるい)をダシにして俺を脅している。
 春依と俺は双子同士。二卵性だから瓜二つとはいかないが、外見もよく似ている。兄と俺達は年が離れている。
 そんな兄が余命宣告を受けた。自宅療養を希望した兄は、その時から俺に暴力を振るうようになった。
 それまで真面目だった兄が、俺の前でだけ豹変した。
 重病人である兄に抵抗はできる。しかし、兄は俺を脅す。
「遥亮(はるあき)が駄目なら春依にやる」
 俺がまともに抵抗した時には、春依に危害が加わるのだ。
 あの時、いつもの呼び方でなくきちんと名前を呼んだ。それも含めて兄の言葉は本気だった。
 春依がベッドに寝ている盗撮写真を見せられたこともあった。
 春依は一応女の子であるが、気がとても強くて、かなり鋭い性格だ。そして兄は重病人だ。
 それでも突然襲われたりしたら必ず怪我はするのだ。
 最悪兄は殺すことだって厭わない。らしい。大体、春依でも簡単に盗撮されるのか。
 俺は、兄からの暴力をずっと秘密にしていた。口止めもされている。
 兄は主に見えない場所に傷を作る。それだけが救いだった。春依には、いや、誰にも知られたくはなかった。
 最近兄はナイフがお気に入りらしい。一回は刺すように左手の甲を切りつけられ、今でも傷跡が残っている。
 指だけ出せる黒い手袋でいつもは隠している。左手にだけ、手袋をはめている。寒い時は両手に手袋をはめる。
 今はそんな手袋も部屋に置いてきている。いつのまにか俺は黒い服装を好むようになり、もしかしたら内面も変わっているかもしれない。
「お前は何でそう平気なんだ」
 そう言って兄はまた、俺を感情に任せて殴る。
 平気そうなだけだ。まともに歩けなくなったこともあったのだが知らないのだろうか。
 春依が基本的に部屋にこもってくれることは、本当に助かった。
 春依と顔を合わせる時の俺は、大抵何事もなかったかのようにいれる。
 殴っても蹴っても兄の感情は発散されないらしく、苛立ったように声を上げ始める。
「いい加減音をあげろ!」
 攻撃が止んで油断していた俺の目の前に、ナイフが迫る。咄嗟に左手で顔を庇った。左手首の外側がざっくり切れた。少し遅れて血が滲む。
 無表情に傷を眺める俺に兄は未だ怒鳴り続ける。また暴行を始める。そして突然動きを止めた。
「もうお前なんかやめる。そこら辺の女をボコボコにしてやる」
 そこら辺と言ったのに兄は少し遠くの地名を挙げ始め、不意に立ち去ろうとする。最初のうち、俺は痛みに悲鳴を上げ、悶え苦しんで呻いていたのに。ある時から俺の感情は死んでしまったのだ。最近になってから、大して苦しんでいる様子を見せない俺に物足りなさを感じたらしい。
 ――本気ではないか?
 そう直感が告げて、必死に兄を止めようとしたが体が動かない。殴られた所為で意識が回る。
 それでも何とか身を起こして兄を追おうとしたが、兄の姿は既に見えなかった。

 よろめきながら自分の部屋へと向かう。鈍い痛みが体中を覆い、切られた左手は未だに血が滲んでいる。もしかしたらそろそろガタが来るのかもしれない。とも薄っすら思った。
 部屋のドアを開けたらそこには春依がいた。普通にベッドにもたれて自分の漫画を読んでいる。いつものようにカジュアルで、少しだけ女の子らしい服装。室内なのでいつもの青いジージャンは着ていない。
「何でいるんだよ」
 俺は左手の傷を袖で隠しながら問う。動揺も先程受けたダメージも見せないように立つ。
「何か隠してることがあるんじゃないのか?」
 春依は俺の問いに構わず、読んでいる漫画から目を上げずに返す。
「何だよ突然」
「兄貴は兄貴で夜中に写真撮りやがって」
 気付いていらしたんですか。
 春依は俺のことをハルアと呼び、兄のことは兄貴とか兄ちゃん等と呼ぶ。
「で、また兄貴にやられてたのか?」
「何のことだよ」
「私に隠し通せるとでも?」
 春依はとても鋭い。
 いつもと違う、落としたトーンの春依の声。いつもはふざけたようにあれこれ喋っているのに。俺は何の言葉も返せない。
 春依は唐突に漫画から顔を上げ、漫画をベッドに置き、俺の目の前に歩み寄ってきた。少し背の低い春依を、俺はいつものように見下ろす。
 座れ、というように床を指差す。仕方なく俺は素直に座る。春依も俺の向かいに座る。
「またガラスで切ったとか言い出すのか?」
 俺と同じ、眼鏡越しの切れ長で吊り目。真っ直ぐ刺すようにこっちを向いている。俺は何も答えられない。
「だからいつまで経っても私と声が似てるんだ」
 また人がとても気にしていることを。
 春依は俺の左手を掴んで持ち上げ、袖を引き下ろす。そして露わになった傷跡を右手できつく掴んだ。鈍い痛み。そして春依の右手の平は血に染まっていくのだろう。
「全部話してもらおうか」
 逃がさないとでもいうように春依は俺の手を強く掴む。今まで十七年間ずっと一緒にいて、見たこともないような真剣で強い目。
 春依に俺は、全く敵わない。


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