君に一輪のありがとうを―病弱少女のトリセツ―


二つ目のお話。
 ある日の朝。謎の少女が越してきてから一週間くらいかな。僕はゴミを出そうと部屋を出た。ドアを開け、同じ階の部屋を繋ぐ通路へ出た。手すり越しに外が見渡せる。お日さまぽかぽか春うらら。朝の涼しくて清々しい空気が漂ってくる。気持ちが良いな。階段を下りて、ゴミ置き場に行こうとした。
 小さな駐車場に出る。もちろん車は停まってない。さっと通り抜けようとしたら、隅っこの方に人影があった。あの子だ。ゴミ袋を前に、しゃがみ込んで顔を腕の中に伏せている。近寄ってみると、鼻をすする小さい音が聞こえてきた。僕は声をかけてみた。
「大丈夫?」
 すると、余計に泣き始めた。モンスターにでも遭遇したかのような悲鳴を上げ始める。
「やーよー! やーなのよー!」
 正直うろたえてしまった。不思議な言語で泣かれてしまった。そして僕は、友達の話を思い出した。友達は言っていた。
「君の前で泣くことがあったら、黙って側にいてあげるんだよ」
 友達は、人助けをしているらしい。断片的に話してくれることをまとめると、人助けをしているらしい。行き先をなくした女の子を引き取っているらしいとか。女の子がよく不安定になるだとか、全部は自分のせいだとか。断片的には話すのに、確信的なことは話してくれないからよくわからないや。結論、僕の中で友達は人助けをしていることになっている。
 そんな友達が、教えてくれた。落ち着くまで待ってあげてから話しかけると。だから僕はしばらくあの子の前にしゃがんでみた。
「やーだからやーなのよー……」
 あの子は泣き続け、やがて疲れたらしく、俯いたまま黙り込んでしまった。僕もそろそろ時間が来ていた。
「ゴミ、僕のと一緒に捨てておくね」
 あの子の前に放っとかれたゴミ袋を持つ。するとあの子は突然伏せていた顔を上げた。
 涙で潤んだ目がこちらを向く。くりくりしている。前髪は目のすぐ上で綺麗に揃えられている。真っ直ぐだ。風が吹いて、ストレートの髪がさらりと揺れる。あどけない顔立ちでとても可愛らしかった。不思議な形の口がかすかに開く。
「のんちゃんは病気よーです……誰にもわからない病気よーです」
 囁くような可愛い声で呟いた。そしてまた顔を腕の中に隠してしまった。名前がかのん、だからのんちゃんなのかな。
「ありがとうです」
 それだけ言って、のんちゃんはまた黙り込んでしまった。
「困ったことがあったら、僕に言ってね。隣の部屋にいるからね」
 僕は、二人分のゴミ袋を持ってゴミ捨て場へ向かった。振り返ったら、背を向けてちてち走り去ろうとしているあの子、のんちゃんが見えた。
「おぅおぅよー!」
 そう言いながら、部屋へと走って帰っていった。手が体の横で振られている。何とかバランスを取っているようだ。
 初めて挨拶してきた時は、普通の可愛い子に見えたのに。あれは何処へ行ったのだ。のんちゃんは不思議な言語をよく話す。
「病気よー、って何だろう」
 僕は何となく呟いていた。のんちゃんには何か抱えているものがあるんだと思った。あの謎の多い行動、言動は、不思議な性格からだけなのではないのだと思った。
 のんちゃんを助けたい、と思った最初だった。

三つ目のお話
 僕の日常は学校と壁越しの電波。駐車場での一件以来、のんちゃんを見かけなかった。でも、相変わらず隣からは不思議な声が聞こえてくる。歌声と、泣き声だ。いや、鳴き声かもしれない。
 僕の部屋のチャイムが鳴ったのは、それから数日後だ。一回軽い電子音が鳴ったと思ったら、連続してもの凄い勢いで何度も鳴った。僕は慌ててドアを開けた。そこには、再び涙で目を潤ませたのんちゃんがいた。のんちゃんは僕なんかよりもっと慌てている。両手を顔の前で忙しく振っている。体も小刻みに震えていて、口からは断続的に声が漏れる。
「はぅはぅはぅはぅ……はぅはぅはぅはぅ!」
「どうしたの?」
 のんちゃんは勢いよく顔を上げて僕を見る。僕を真っ直ぐ見つめた目は涙でいっぱい。でも何とか零れない。
「虫さん、虫さんですよ! 虫さんよ!」
 のんちゃんが必死に叫ぶ。同じ言葉を何度も叫ぶ。
「お部屋に虫さんがいたの?」
「虫さんよ!」
 のんちゃんが僕の袖を握って軽く引く。
「おうちあがって平気?」
「虫さんなのよー……」
 のんちゃんは頷きながら同じ言葉を繰り返す。
 のんちゃんのお部屋は、見た感じ綺麗だった。のんちゃんに似合わず、お姉さんという感じの落ち着いた部屋だった。そんな部屋の片隅、不自然に可愛らしい小物や服が置いてあった。大きな旅行カバンが置いてあって、それが洋服収納場所になっているようだ。
 つまりは、今まで住んでいたはずである女の人の部屋をのんちゃんが借りているのだ。
 洗面所の前に、バッタがいた。ここらへんでは、そんなに虫には遭遇しないから珍しい。
 僕はバッタをそっとつかんで、外に出た。バッタは外に逃がした。
「虫さんお外に帰ったよ」
 のんちゃんはドアの前でしゃがみこんで、顔を腕に埋めていた。この前と一緒だ。僕が外へとドアを開けたら、顔を上げた。
「虫さんもういないの? いないですか?」
 囁くような可愛い声。
「もうここにはいないよ。大丈夫だよ」
 また僕も同じ目線にしゃがもうかと思っていたら、のんちゃんが立ち上がった。
「ありがとうです」
 ぺこりとお辞儀をした。ストレートの髪がさらりと揺れた。そして三日月形の口が小さく動く。
「あの、お名前は?」
「え、あ、川越です。川越祐斗」
 のんちゃんの目がぱちくり瞬く。
「何て呼べばいいですか?」
 のんちゃんがこんなに喋るのを初めて見た。いや、今まできちんと関わったこともないのだけれど。
「みんなには、ゆーちゃんって呼ばれてるよ」
 ちょっと恥ずかしいのだけど、僕はそう明かした。
「ゆーちゃん。ゆーちゃんおいくつ? のんちゃん十八歳よ」
 きっと見た目より年上なんだろうな、と思ったら本当にそうだった。
「僕は十九。大学二年だよ」
 のんちゃんは相変わらず、ぱちくり瞬きをする。今まで見せていた強めのバリアーも、警戒心も緩んでいるのがよくわかった。
「のんちゃんはですねぇ」
 のんちゃんはちょっと俯き、はにかんで。
「ゆーちゃんに興味持ってしまったようです」
 危機的状況を共にすると、親密度が上がるというのは本当のようだ。俯いて、照れたような微かな笑みを浮かべるのんちゃん。のんちゃんとの交流はこんな感じで始まった。


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