君に一輪のありがとうを―病弱少女のトリセツ―


最初のお話。
 突然のんちゃんは越してきた。僕の隣に越してきた。
 第一志望の私大に入り、受けたかった授業を受けて、続けたかった楽器を続けている。それなのに何かが足りないんだ。欲しいと思っていたものを、全部手に入れてしまったような気がしている。なのに、何かが足りない。
 大学の友達二人は、僕と違うんだ。同じように第一志望に入って、やりたいことをやっているみたいなのに、僕とは違う。僕だけ何かが欠けているんだ。
 僕は時々、悶々とする。心の何処かを、ぽっかり失くしているんだ。
 そしてのんちゃんは越してきた。僕の隣に越してきた。
 僕の住むアパート。駅から小さなビルの間を歩いて行くと、住宅街がある。家がまばらすぎて、住宅街と呼んでいいのかわからないけど、とにかく人が住む町がある。そこにアパートはある。
 二階建ての小さいアパート。各階に部屋は三つずつ。近くにマンションができた所為か、寂れている。ここのアパートだって、安いし綺麗なんだけど。今人が入ってるのは、僕の部屋と隣の部屋だけだ。
 そこに僕は住んでいる。その隣の部屋にのんちゃんは越してきた。
 確か、その部屋には若い女の人が住んでいたはずだけど。引越ししている様子もないけど、最近時々しか帰ってくるところを見かけない。
 そんな中、僕の部屋のチャイムが鳴り、ドアを開けたら知らない女の子がいた。
 小さくて可愛い女の子だ。髪は肩くらいまでで、柔らかそうだ。つぶらな目で子猫のように見える。僕の方を見ると、微妙に怯えた感じに挨拶してきた。
「隣に越してきました。北本佳音と申します。よろしくお願いします」
 感情がこもってなかった。義務的だった。でも僕は返事をして、それだけだった。

 これが、のんちゃんとの最初の出会いだった。


一つ目のお話。
 隣に女の子が越してきてから、顔を合わせることはあった。でも、会話は交わさなかったし、挨拶すら向こうは受け付けない感じだった。僕を遠ざけるオーラが、肌にじんと伝わってくるのだ。
 隣からは、時々歌声が聞こえてきた。楽しそうだった。そして上手だなと思った。一応うるさくならないように気をつけているのか、鼻歌だった。
 鼻歌も聞こえるけど、泣き声も頻繁に聞こえた。声は殺して、すすり泣きだ。そして不思議な言葉が聞こえる。のんのんよーだか、やーよーだか。それはとても可愛らしい声で、僕の心を和ませた。
 もしかしたら、宇宙人なのかもしれない。とかいうおかしな想像が頭をよぎる。あれは仲間との交信で、地球に迷い込んでしまったSOSなのかもしれないとか。
 気にしながらも、僕は特に何もしなかった。ただ微かに聞こえる声を、壁越しに聞いていた。
 僕は大学二年生。授業にサークルにバイト、大学生活を謳歌していた。だから隣から発される電波に関しても、時折友達との話のネタにしているだけだった。気にする時間がなかった。なかったはずなのに、ふと気がつくと考えている。
 可愛くて不思議な女の子、という以上の何かがあった。
 きっと、予感があったんだ。これからの……。


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