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翌日、翼は初めて高校を休んだ。早々と皆勤賞を逃した。そもそも取る気はまったくなかったのだが。
ここ数日、疲労感を覚えていた。まだ大丈夫まだ大丈夫と一生懸命耐えて、今日は糸が切れたように動けなくなってしまった。
――何か体調がよろしくない。
最近体が鉛のように重いし、腹痛頭痛の頻度も高かった。ゆっくり寝込んでみて、思考が整理されてきた。
――緊張、してたんだな。
泰則と距離が縮めば縮むほど、不安も大きくなっていた。おかしな奴と思われるのが怖かったし、嫌われることに怯えていた。
文芸部に飛び込んでからも、良い印象を与えたいと緊張しきっていた。
涼のことだって。遂に嫌われる、とあの時本当にぞっとしていた。思い出して胸が苦しくなり、右手に歯を立てた。
自分が好かれているという感覚が全くない。
不意に悲しくなった。右手を口から離して、目の前に持ってくる。赤く彩られた右手。余計悲しくなって、右手をそっと左手で撫でてみた。
お腹の底から、何か温かいものが込み上げてきた。その体温は翼を優しく包む。安心感に浸っていたら、携帯がメールの着信を告げた。涼からだった。
『俺、本当に翼を傷付けちゃったかな。
何か、こんなに重いメールするなんて俺らしくないな。余裕とかないっぽい。
翼が大好きだから。
すっごく心配。
気持ち悪いな、マジごめん。』
携帯を置き、右手を胸に押し当てた。騒ぐ胸中を抑えるように、傷付けた右手を抱き締めるように。
――自分を一番嫌っていたのは、自分だった。
傷付けたのはこっちだった。涼の項垂れた姿が浮かぶ。あんなことがあって、翌日休んで、心配するのは当然だ。普段は絵文字をよく使ってくるのに、送られたのは一切使わないメール。いつもの軽口は姿を消している。思えば、あの口ぶりからすると涼は翼のよからぬ噂をもっと聞いていた。その中から、事実だけ抜き出していた。わかっていたのだ。どれが本当か。涼は翼をきちんと見てくれていた。
震える手で、返信した。
『涼のせいじゃない。体調悪いみたい。心配かけて本当にごめん。』
それから、最後に付け足した。
『俺も涼大好きだよ。』
気持ち悪ぃな! と笑ってほしい。強く願った。また右手を撫でる。
苦しむ自分から目を背けて、ひたすら自責を続けていた。自分の感情を否定し続けていた。
――自分だけは味方でいても、よかったのに。
自分の感情と向き合うべきだったのだ。向き合って、大事にしてあげるべきだった。自分を大切にすることは、甘えとは違う。認めてあげるべきだった。好きでいるべきだった。
そうでないと、慎吾や泰則、涼、周りも大事にできないのだ。周囲の優しささえ、否定していた。
何もできなくていい。解決できなくていい。自分の中だけで留めてもいい。
ただ、自分だけは自分の感情を認めてあげてほしい。自分が今どんな感情で、どんな気持ちを抱いているか、それを否定しないでほしい。
誰も認めなかったとしても、自分だけは自分を見捨てないでほしい。
あの頃の自分に、そう言ってあげたい。
慎吾に見つけてもらった、泣いている本当の自分。それを、思いっきり抱き締めてあげたい。
辛かったな、苦しかったな、よく我慢したな……
慎吾が以前何度もかけてくれた言葉を、今度は自分でかけた。
「…………頑張ったな」
こっそりPCを立ち上げ、キーボードに指を滑らせた。
☆
欠片が光を放ち、それを灯りにして進んでいた。
不安げに、泣きそうに立ちすくむ人影が見えた。誰ですかと問う声と、同じ口の動きを人影もした。
最初に見つけたそれは、鏡だった。
鏡から人影が抜け出してきた。泣きそうなその人は、俺の頬を指で撫でた。拭われる感触。
あぁ、俺は泣いていた。
そして、俺は俺自身に腕を回し、抱き締めた。
☆
それからぐっすり眠り、朝には回復していた。
教室に入り、涼の元へ真っ直ぐ向かった。そして真っ直ぐ涼の目を見据えた。
「翼、もう大丈夫なの?」
「うん。あの、本当にごめんなさい……」
「いや、俺が単刀直入すぎたんだ。思い出して辛くなるのは当然なのに」
「俺、ずっと弱音吐けなかったんだ。誰にも、慎吾にも」
「……うん」
「ちゃんと今度は話すから。苦しかったら苦しいって、言うから」
「わかった」
涼は普段と同じ、へらっとした笑顔を浮かべた。
「ありがとう」
泰則も登校してきた。素早く鞄を置き、急いで二人の元へ歩み寄ってくる泰則に、翼は心から笑顔になれた。
「ヤスおはよ。昨日はみっともなくてごめん」
「大丈夫……?」
「うん、大丈夫。見学の時もごめん」
「いや、僕も人見知り激しくて。緊張したよね!」
「今日も文芸部見学に行こうと思ってるんだけど……」
「僕も行くよ!」
「俺は軽音楽でも見に行こうかね。バンドは女の子にモテそうだからな!」
勝手に一人で作った壁が崩れていくのを感じた。これで本当に、涼とも泰則とも友達だ。
自然と三人でつるむようになった。昼休みメンバーはいつもこの三人。
翼と泰則は母お手製弁当、涼は購買の焼きそばパンを食べていた。
翼は一口サイズのオムライスが気に入っていた。今日は愛するオムが入っていて、幸せな気持ちになる。
「さっき二人で何話してたの?」
前の休み時間、涼と泰則が深刻そうに話していたのだ。
「あぁ……何か翼、校門で待ち伏せされてたんだろ? ってか……ストーカーされてるんだろ?」
「う、うん……最近は盗撮だけだと思ってたんだけど……」
相変わらずシャッター音が聞こえる。写真の行方が恐ろしい。
「気を付けてね」
「でも大丈夫だからな。翼には俺達がついている!」
二人は何か隠してる。そう翼は直感した。同時に、隠す理由があるように思えた。だからこちらから質問はしなかった。
今度からは素直に助けを求めようと思った。頼ろうと決めた。
泰則と共に再び文芸部へ訪れた。翼の姿を確認すると同時に、女子部員が部室の隅に寄った。
「あ……何かすいません」
「いやいや。ちょっとずつ慣れればいいよ」
今日も真守部長が仕切っていた。雫と北川も来ていた。先輩同様、部室の隅にいた。
「女性はまず物理的接触をしないことを風矢君に示す。精神的な面はそこからゆっくりカバーすればいいと」
「何すか……それ?」
「そう、北川さんがね。言ってたの」
「北川ぁ!」
慎吾の口癖を翼も真似ていた。
――北川さんって、何者なんだ!
「なので! やっぱり皆さんも、風矢君と荻野君の関係に萌えることを推進します!」
空野が高らかに言った。
「え?」
「出会ったばかりで今はまだぎこちなさを残しつつ、着実に距離を縮めていく……そして関係は穏やかに進展していく……萌え!」
「わかるわー」
「わかるんですか!?」
意味不明な空野の発言に、女子の先輩が同意した。翼は混乱の嵐だ。
――どういうこっちゃ!!
「今もほら! 荻野君にしがみつく風矢君萌え!」
「萌え!」
――宗教か!!
でも何故だかその奇妙な空気に安らいでいる自分がいた。紆余曲折はしているが、弱点を上手に回避してもらっている感じがしたのだ。
「凄いね空野ちゃん……萌えの発掘王だよ!」
「発掘王ってなんだ……」
壁際が盛り上がっている。
「先輩、雫でいいですよ!」
「雫ちゃん! 発掘王!」
「萌えですね、先輩!」
今度は泰則の方が怯えて翼にすり寄ってきた。目を合わせたら、お互い笑いが零れた。
「見つめあった萌え!」
「いかなる状況も自分に合わせて捉えられることが羨ましいです」
「北川ぁ!」
自転車で五分の帰り道。その日はわざわざ自転車を転がして歩いていた。待ち伏せが怖かったが、今日はいなかった。
「何か居場所出来そうかなー」
女子部員もいることが、とても不安だった。でも、何とかやっていけそうに思えた。新しい部活に対する期待が高まって、翼は自転車に跨った。一方通行の道が何故か通れないので遠回りして通学、下校している。
一方通行の道に目線を移すと、今日も車が停車していた。
車の中が完全に見えない作りになっていて、翼は怪しい車だなと思っている。そして運転席にいる人がこちらを見ている気がする。
翼は何とも嫌な気分になる。そのせいで、余計にその一方通行の道を通りたくなくなってしまう。
でも、癒やされた翼は、何となく。
何となく、そのうちあの一方通行の道も通れるかな。と初めて翼は思えた。
その後も翼は泰則と見学に行った。気を使ってもらっているけど、お互い負担にならない程度でちょうどよかった。上手に距離をつかめるようになってきた。段々と翼の不安は和らいでいった。
翼も泰則も入部を決めていた。
ある生物の授業で、葉緑体の話をしていた。葉緑体に含まれる葉緑素、クロロフィル。
クロロホルムと名前が似てるなとか翼は思ったが、ここではその話は出なかった。
生物の先生はスラっと少し背の高めな女の先生で、いつも明るく授業中に必ず一度は面白い話をしてくれる。
その時の話はグリーンガムだった。
グリーンガムとは名の通り薄い緑色のガムであり、その色づけにクロロフィルが使われているだとかいないとか。
そこから話は謎の発展を見せた。
先生がまだ学生だった頃。何故だかグリーンガムが恋のアイテムに使用されていたらしい。
好きな子に手編みのマフラーを渡すのと同じくらいの効力があったらしい。
なのでその当時は、グリーンガムが話題だったとか重要アイテムだったとか。
先生の周囲だけだったのか、その頃の学生がみんなそうだったかはわからない。
らしいが、翼的には先生の周囲だけだと思っている。
「女クラでも話したからねー。モテる子なんかはもらっちゃったりしてね。グリーンガム」
女クラとは女子クラスのことである。
「何か話聞いてはりきり出してた子がいたし」
楽しそうに笑う先生。楽しそうに笑う一組の面々。翼とかもらっちゃうかもなーとか冗談めかした声もあがっていた。
翼は既にこのクラスでも公認のカッコよさだった。イケメンだった。グッドルッキングだった。
翼もそんなわけないだろーと笑っていた。
そんな授業の後の休み時間。翼はいつものように、友達達と会話していた。
すると、廊下のあたりから何か影がちらついている。廊下側の壁には窓がいくつかあり、くもりガラスになっている。
そのガラスから影がちらついている。奇妙な動きをしている。うごうごしている。変な声も聞こえる。
「俺見てくるわー」
涼が楽しそうに言って、廊下へ出た。そして悲鳴を上げて戻ってきた。その間わずか数秒。
「空野が、出た」
猛獣にでも遭遇したかのような涼の声。
「翼にこれ渡してって」
怯えた涼の声。差し出されたのは他でもないグリーンガムだった。しかも一枚単位ではなく、未開封の包みごとである。
「好きです。だって」
猛烈な寒気に襲われたかのような動作を始める涼。いや、猛烈な寒気に襲われたのだろう。
「何度目だよ告白されるの」
「数えてない。怖いから」
その後の会話はそればかりだった。翼はまぁ、ガムくらいいっか。と軽く、とても前向きに考えることにした。
「あれ? 空野、携帯落してるじゃん」
涼が気付く。翼も見るが、確かに雫の物だった。
「昼休み届けに行くか。これないと困るだろう」
「涼、お前一人であの女子校舎へ乗り込むのか」
「……空野はやり遂げた」
「アイツと一緒になるのか?」
「死んでも嫌だ」
ここで翼は猛烈に迷う。女子校舎へ行くのは死ぬほど嫌だ。
しかし女子好きが既に女子達に知られている涼を一人で行かせたら石でも投げられるのではないか?
「ヤス。俺達も一緒に行くぞ」
自分がどうだかはわからないが、取り敢えず泰則がいれば石は投げられないだろうと翼は判断した。
「お、おぅ」泰則もあまり女子と話すタイプではないらしい。
昼休み、三人は恐る恐ると女子校舎へ。雫のクラスへ。幸い、ドアも窓も開いていて多少は入りやすい。
男子の訪問に教室内の女子達が反応しだす。女子にだって男に飢えたヤツもいるらしい。
「あ、風矢くぅーん! ぐっふふー」即座に突っ込んでくる雫。
翼と泰則は後ずさりして逃げ出し、涼は腕いっぱい伸ばして距離を取り、携帯を差し出す。
突然現われた噂の王子、風矢翼に嬉しそうな悲鳴があがる。一斉に廊下側に寄ってくる。
メルアド教えてーと言う叫び声。一人は何故か喜びのあまり失神。
雫クラスがパニックに。三人には予想外だった。翼の威力はここまで来たか。
そんな雫クラスを放置して、三人は逃げ去っていった。
「翼ってさ」泰則がまだ恐怖の色が残る声で話し出した。
文芸部に行くようになって少し経つが、雫にはまだ慣れないらしい。
一年間クラスが一緒だった翼が怯えているのだから無理はない。
「空野さんに好かれてるの?」
「好かれているというより食われそう」
「た、大変だね」
「いつ食い殺されるかと心配だ」
「というか翼って女子、本当に駄目なんだね。女子がみんな肉食獣に見えてそう」
「確かに卒業式で襲われたぞ」
「僕は男子にしか話しかけられなかったよ」まったり笑う泰則。
ここで翼は、制服のポケットに入った携帯が震えるのに気づく。取り出して開く。メールが来ていた。雫からだ。
部活が一緒になったのでメルアドを教える羽目になった。
『携帯ありがとー♪きっとここまで来るの怖かっただろうね。大丈夫?まさか来るとは思わなかったよ。ぐふふ♪』
――まただ。
翼は思った。何も知らないと思っていたが、何かをわかってる気がする。
――それとも思い過ごし? 考えすぎ?
雫を翼が怖がっていることを書いたのだろうか? それならわかっててもおかしくはない。
というか翼が女子を極端に恐れることを周囲はすぐに気づけるようなので、雫がわかっても全くおかしくはない。
翼はようやく結論付けた。卒業式からの謎だった、雫の言葉。
――きっとあのことは知らないんだ。だからこそ好きとも言える。
あの極端な恐れようからして、女子と付き合うなんてできないとわかってる。そう「わかってる」。
それでも引っ掛かる直感があったが、直感なので考えてもわからない。翼はその結論で納得することにした。
翼の直感は当たることが多いのだが。
取り敢えず、『涼の保護者で来たんだよ(笑)心配ありがとう。』とだけ返しておいた。
「大丈夫大丈夫」
そう声に出し、
「じゃ……俺はちょっと保健室に行ってきますね……」
「ちょ、大丈夫じゃねぇじゃんか」
「翼……また具合悪くなったの……?」
受験が終わって以降、体の調子がよろしくない。精神的にはかなり楽になったはずなのに、体は糸が切れたように不調を訴えた。高校に入ってからもちょくちょく欠席するし、保健室にも行っていた。出席日数や単位に響くほどではないから、問題ないといえば問題はないのだが。なんとなく不安ではあった。
――確かに過去を引きずってはいるのだけど……。
だけど、どうしたらいいのだろう?
「大丈夫大丈夫」
また声に出す。