その晩は、久々に深い眠りだった。
 無感情だったり、暗かったり、いきなりパニック起こしたり。慎吾にも迷惑かける。そんな自分が嫌で仕方なかった。
 でも、でも慎吾がいる。そう思うと何故か安心した。慎吾はいてくれる。
 それからも、部活で忙しい慎吾と何とか時間を作って一緒にいた。濁流に流される中に、小さな浮き輪を投げ込まれたようだった。小さな浮き輪は、翼が水中に押し込まれるのを守った。溺れながら足掻きながら、どうにかこうにか泳いだ。
 折れそうな気持ちを、いや既に折れている気持ちを繋いで繋いで、二年生は終わった。

 奇跡だ。クラス発表を見て、まず翼はそう思った。慎吾が同じクラス。慎吾の友達も一緒らしい。
 新しい教室に慎吾と向かい、その友達と対面した。暗くておかしな自分は嫌われるのではないか、という恐怖が湧き上がり、慎吾の背に身を少し隠した。その友達は伸びた前髪を真ん中で分けていて、制服は少し着崩されている。地味すぎず、不真面目な訳でもなく、適度だった。
「城崎涼です! 慎吾のダチですヨロシク!」
 吊り上った大きな目を思いっきり綻ばせた満面の笑顔で挨拶された。テンションの高い声と少し軽薄そうな雰囲気は、人に壁を全く作っていなかった。逆に余計怖くなり、翼は俯いた。慎吾の友達だし、いい人っぽい。嫌われたくないな……。
「こいつ、風矢翼。すんげぇクールで物静かだけど、懐くと可愛い!」
 慎吾は翼の頭に手を置いて紹介した。懐くと可愛いって何だよ、と恥ずかしくなりながら、翼は涼に微笑みかけた。涼も笑い返してくれた。そこに二年で同じクラスだった人達が寄ってきた。
「翼、また同じクラスだな!」
「俺は翼の友達っす」
 翼に、慎吾に語りかける。翼はきょとんとする。訝しさが湧いたのだ。友達。二年の時、その友達に翼はほとんど話しかけられなかった。あまり好かれてないとさえ思っていた。おかしな自分を困ったように見ている、というイメージしか浮かばない。
 でもまぁ、友達なのか。訝しさはすぐに消えていった。
 新しいクラスでも、やはり翼はぞんざいに扱われていた。でも普段は慎吾や涼達と一緒にいて、気にしないでいられた。気にしてない。楽しい。気にしてない。楽しい……
「気にしてない。楽しい」
 声に出してみたら、とても平坦だった。

 ある日、翼のノートの表紙を破られている場面に遭遇した。言葉だけなら放っておくことでやり過ごすが、日々を送るのに困ることをされるのは腹が立つ。
「何やってんだよ」
「あーこれ風矢のか。返す返す」
 笑いながら紙の破片を投げられた。床に落ちたそれを拾う。破った本人は既に何事もなかったように友達と話している。破片をノートに挟んで机にしまい、苛立ちながら慎吾達の輪の中に戻った。
「翼何怒ってんの?」
 薄ら笑いと共に問われた途端、翼は怒っている感情がわからなくなった。誤魔化すように笑顔を作る。いつものことだ。そのまま何もなかったように会話は進む。
「どかしたのか?」
 慎吾が小声で尋ねてきた。
「別に」
 翼も小声で答えた。目を逸らしたのに、慎吾の方は眉尻を下げてこちらを見つめ続けている。それから、先程翼に語りかけた友達の方に向き直った。

「何で怒ってることを笑うんだ?」
 柔らかな声の中に、強い語気があった。空気が凍る。静まり返る。
「そうだよなぁ? 普通、何かあったのか聞くよな」
 静寂を破り去るような明るい声で涼が言った。
「い、行こうぜ」
 みんな席を立ち、去っていく。残ったのは翼と慎吾と涼の三人になった。
「あ……行っちゃった」
 慎吾が軽く慌てる。
「いいんじゃねぇの?」
 涼はまた軽く言い放って、気楽そうに笑った。
「……ごめんなさい」
 翼は消え入る声で呟いた。テレビの画面を見ているような気分だった。ただ目に映り、通り過ぎる。慎吾と涼に対する申し訳なさだけが胸を占めていた。
 しばらく慎吾と涼が二人で話していた。翼は何も言わずに会話を聞いていた。
「翼、慣れるといっぱい喋るんだよ」
 と以前慎吾が涼に話しているのを聞いたし、よく話す自覚はあるが、今は何の言葉も出てこなかった。
「ちょ、雫何これ! 蒼井君と風矢君?」
 教室の片隅から女子達の声が聞こえてきた。名指しされた翼と慎吾はビクッと硬直する。
「何でこんな恋人同士みたいに描いてんの!」
「リアルで怖いよ!」
 恐る恐る声の方に目を向けると、雫とクラスメイトの北川が友達達と談笑している。北川は、よく翼のクラスに来て雫と話していたのを見ている。雫は緩みきった顔で笑っているし、北川も相変わらずの無表情ながらも楽しそうだった。何とも愉快そうなグループに見えた。
「リアルってどういうことだ!」
 視線を戻すと慎吾が頭を両手で抱えていた。涼は腹を抱えて大笑いしていた。つられて翼も笑う。
「翼ぁ、他人事みたいに笑ってんなよー!」
 慎吾が嘆く。涼がまた笑う。雫達はこちらに聞こえてることに気付いていないらしく、まだ盛り上がっている。
 翼は慎吾と涼の三人でいて、雫達の怪しげな話に巻き込まれる、他の人からは見下される。そんな図式が、その後も続いた。
 無彩色。モノクロ。グレースケールの世界。そんな中でも、今なら何とか生きていけた。呼吸ができた。
 その反面、体の調子がどうもおかしい気がしていた。学校生活に支障が出る程ではなかったので、放っておいた。


 やったー! 三年のクラスは翼も涼も一緒。こんなに最高なクラス発表初めて! ちょっと俺ははしゃいでいる。
 翼と涼が打ち解けてくれるか心配だった。涼はおかしな偏見で人を見たりしないから信頼があるが、翼の方が懐いてくれるか……。
 でも不安をよそにどうやら懐いてくれたみたいで、ほっと安心。翼と二年の時同じクラスだったという他の友達も一緒だ。
 ただ、俺は翼を掴めないでいた。
 友達と楽しそうにしている時、ふとした瞬間に、翼が作り笑顔に見えた。その違和感は一瞬だったけど、それから観察しても翼の楽しさが掴めなかった。それ以外の感情も見えなかった。
 実際「楽しいか?」と問うたところ、「楽しいよ」と答えてきたが、そんな翼が形として浮かばなかった。あるのは、ぼやけたもやだけ。
 そんな時、不機嫌な翼を見た。それを笑う友達を見た。不機嫌を瞬時に殺す翼を見た。ふっと湧いた憤りに任せて言葉を吐いてしまったが、後から胸が痛くなった。もちろん友達に対してではない。翼にだ。それからその友達達とはつるまなくなったが、翼の姿が今でも掴めない。
 本が大好きで、時々不思議発言をして、大人しくて、やたらと精神年齢が高くて、友達といる時は表情が緩んでいて……浮かんだ翼が、翼の姿をした人形に思えた。不機嫌を殺した時の目、人形の中身を垣間見たような気がした。あの時流れた赤は、やはり涙だったのか。浮かぶ翼の目、何の色も明るさも混ざらない、黒。
 二年の時のように、翼が取り乱すことはなくなった。多少、翼も大丈夫そうに見えた。だから、逆に問いただす機会が見つけられなかった。

 時は過ぎ、俺達は高校受験と戦う時期へ差し掛かっていた。俺は勉強のできる翼と涼に専ら教えてもらう、生活を占める受験勉強を嘆きあう……普通の受験生になった。翼も、一見普通の受験生になった。でもその奥の奥に、影を感じた。未だ何もできず、時は過ぎていく。


「俺は頭おかしいからな」
 翼は口元だけで微笑んだ。
「またそんなこと言う」
 慎吾は眉尻を下げた。
 ――何故そんなに追究してくるんだ。
 必死で守っている何かが壊れてしまう気がした。だから必死に回避していた。それでも慎吾は翼の中へと入ってくる。
「現実逃避」
 不意に言葉が出てきた。
「現実逃避?」
 慎吾が、細かなヒントも逃さないとばかりに食いついてくる。
「俺は、本で現実逃避してるんだ」
「苦しみから?」
「弱い自分から」
「弱くないってば」
「弱いんだってば」
 あぁ、また慎吾が入ってくる。翼の中にある、何かに触れようと。苦し紛れに、翼はもう一度口にする。
「現実逃避、してるんだ。俺は」

「それが答えか」
「え?」
「本音だ」
 慎吾の視線が捉えて離さない。
「翼は痛みがわからない程、傷付いたんだ」
「は?」
「しかもお前、どっかで現実逃避なのわかってたんだ。わかってたのに何処かに捨てたんだ」
「なぁ、やめようぜ……?」
「辛いのに押し殺したんだ。そんで、押し殺したことすら目を逸らしたんだ」
「やめろって……言ってんじゃん……」
「逃避とかいうなら逃げていてほしいところだけど、お前は耐え続けたんだ。実は逃げられる場所なんてなくて、せめて目をつむって視界を閉ざして、でももちろん苦しくて……」
 目の前が揺らいだ。手を伸ばそうとした瞬間、慎吾の首を絞めあげた感覚が蘇る。慌てて手を引っ込める。勢いよく椅子から立ち上がり、翼は廊下へ駆けだした。慎吾が追ってくる音が聞こえる。そしてあっさり簡単に追いつかれる。
「翼、俺は心配なんだ。このままでいい訳ないんだ。翼が壊れちゃいそうで怖いんだ……」
 鼓動が胸を激しく叩く。その速さは増していく。何故か涙が出てきて、とめどなく溢れた。モノクロの視界は既に遠かった。思考も絡めとられるようにぼやけていく。足から力が抜ける。
「慎吾……俺はずっと苦しいよ……死ぬことばかり考えてるよ……何されても強くいられる訳ないって、本当は泣きたかったよ……」
 慎吾の体温だけ、感じた。

 目が覚めたら、保健室のベッドの上だった。先生に心配の言葉をたくさんかけられた。二年の時もぶっ倒れたのだから、無理もない。回らない頭で、大丈夫ですから、を繰り返した。病院は辞退して、学校は早退して、今度は自分のベッドに横たわった。頭の中は、かき回されてごちゃごちゃだった。

「今日は泊まるからよろしくな」
 慎吾来るだろうなと思っていたら、案の定慎吾はやってきた。布団に潜る翼をよしよしとさする。翼はむくり起き上がり、慎吾の胸に顔を寄せて、力いっぱい抱きついた。
「お、おぉおぉ。辛かったな。ずっと頑張ってたんだな」
 突然甘えてきた翼に驚きながらも、慎吾はいつものように撫でてくれた。思えば慎吾は翼の気持ちを案ずるばかりで、何があったかは問うてこなかった。
 話そうと、脳内で整理を始める。すると、あの教室での出来事がありありと思い出され、身が竦んだ。
「……足、膝から上を、すっげぇ蹴られたり踏まれたり……色んなところ触られ……あ、足、後から見たら痣だらけで……」
 散らばった言葉を、慎吾は黙って聞いてくれた。時折、翼を撫でる手が震えた。構わず形にならない言葉を発し続けた。自分の中に溜めていた黒いものを、出していくような感覚だった。
「何にもわからなくなってたのに、いきなりパニックみたいになって、俺、頭おかしくなったみたいになって、ずっとおかしいけど……あの時のは違ったんだ。今でもどうしてだかわからない……」
 ありったけを吐き出して、何かが軽くなった。身に纏わりつくものが取っ払われ、楽になった。
「頑張ったな」
 慎吾はまた泣いていた。
「頑張った」
 翼もまだ、泣いていた。
 一番怖いことは、「弱い人間だ」と否定されることだった。
 自分にされたことが酷いことだと思っていたかった。でもそれは、許されないことだと思っていた。自分に不相応な感情だと思っていた。
 小さなことで苦しんでいる、大したことではないのに傷付いていると思い込んでいた。
 本好きで物書き好きで暗くておかしな奴。そう他人に作られた自分の虚像に、自分を閉じ込めていた。
 他人が決めた自分、自分が決めつけた自分を掻き分けていって辿りついた自分は泣いていた。
 慎吾は暗い紫のパーカーにベージュのトレーナーを着ていた。色素の薄い茶髪はさらさらしてて、健康的な肌色は涙で濡れていた。
 翼は深緑のタータンチェックのパーカー、袖口から指先が見える。ズボンは薄い黒。
 少し埃を被った電子ピアノ。その上に乗ったたくさんの楽譜、並ぶ音符。黄緑の小さなテーブルに置いた緑茶のペットボトル。色とりどりの背表紙が本棚には並ぶ。白いミュージックコンポ。薄茶色の学習机。
 色彩を伴った景色。深呼吸を一つ。世界は変わっていた。


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