翼は珍しく先に帰ってしまったらしい。家に着いて制服を着替えたら、電話が鳴った。翼だった。
「どした?」
「慎吾……」
 驚くほど静かで、か細い声は震えていた。泣きじゃくるあの、夢の中の翼が脳裏に浮かぶ。
「どしたどした」
「怖い……」
 冷やりとした。言葉が見つからず、何とか振り絞ったという感じだった。あの語彙力豊富なマシンガントーク翼の存在は、消え去っていた。
「寒い……」
 突き刺すような重い声でそう告げ、電話は切れてしまった。
 え、何だよ……何なんだよ今の!! ただ事じゃない。俺は電話を置くと同時に、家を飛び出した。このために陸上やってるんじゃないかという速度で翼の家へと向かった。嫌な胸騒ぎが心の中を占めた。到着してチャイムを押すも、誰も出ない。車がないから翼の母さんは外出中らしく、翔もいないようだった。鍵が開いていた。中にお邪魔する。階段をどたどた音を立てて駆け上り、翼の部屋のドアを開けた。
 ベッドの上に、翼はしゃがみ込んでいた。左手に刃を出したカッターを持っていて、首筋にあてていた。翼愛用の、左利きでも使いやすいカッター。俺の登場に驚いた翼の手が、首筋にその刃先を滑らせた。遅れて、血がじわり滲む。翼の大きな目が開かれて、綺麗な顔がぽかんとこちらを見ている。滲んだ血が、涙のように伝った。
「……馬鹿っ!!!」
 俺は情けない声で叫んで、翼に駆け寄った。ベッド脇のティッシュを取り、翼の首筋に押し当てた。俺の目からは涙が溢れた。流れても流れても止めどなく、溢れた。
「何やってんだよ……死なないでくれよぉ!!」
 やはり情けない声を上げて泣いている俺をぼんやり見つめている翼は身を震わせていた。色の失せた白い肌が、痛々しかった。
「さ、寒いんだな! 温かくしろな?」
 動揺を隠そうともできない俺は、翼を毛布で包んだ。それでも温度が足りないように思えて、俺は腕に翼を抱き寄せた。翼はされるがままだった。

「どうしたんだよ……何やってんだよ……」
 俺はそれからも泣き続けていたし、翼は何も言わなかった。翼が何処かに消えてしまったように思えて、腕の中にいる翼を逃さないように抱き留めていた。

 そのまま俺は泣き疲れて眠っていたらしい。ぎょっとしたが、目の前で翼がこじんまりと蹲っているのを確認して、安心した。
「ごめん、寝ちまった。傷大丈夫か?」
 言いながら、翼の傷を眺める。生々しい赤で、腫れていた。でも多分浅い。大丈夫なはずだ。何故か左耳に穴もある。ピアスというより、ただ刺しただけのようだった。こっちも大丈夫だろう。
「手当しとこうな。待ってろよ?」
 相変わらず放心状態の翼を一人にするのは不安だったが、やることはたくさんある。俺は部屋を出て、翼の母さんに無断で泊まることになってしまったことを詫びた。それから、救急箱をお借りした。翼の部屋に戻り、傷にガーゼをあてた。何故だか翼は嬉しそうだった。いや、死んだような目に、ちょっと表情が見えただけだったのだが。
「今日は学校休め。家でゆっくり寝てること」
 翼は頷きも拒否もせず、じっとこちらを見返していた。ぱっちりして光の失せた目が、静かに掴みかかってくるように向いている。怖い。
「大人しくしてろよ? 俺は朝練あるしもう行くな。学校終わったら、また来るから」
 デジャブ。以前も何かがおかしい翼を残して去って行ったな。置いていくのは忍びない。忍びないけど……いってきます。
 結局翼は、何も言わなかった。

 その日、俺は普段通りの日常を過ごしていた。違うのは、頭の中が翼のことでいっぱいだということ。でも友達と話したりしていたら、少しは不安も落ち着くような気がした。去年のクラスは、本当に感じ悪かった。何より翼への扱いが酷かったし、大嫌いなクラスであった。一方、二年生のクラスは楽しい。雰囲気も良い。友達とも仲が良い。
 じゃあ、翼はどうなんだ。隣のクラスになってしまった翼は、果たして楽しくやっているだろうか?
 そうは全く思えない。
 結局翼に思考が戻っているところに、同じクラスの女子、北川がやってきた。小柄で少し長い髪、眼鏡。見た目通り大人しい奴。ただ……何か面白いんだよな。そんな北川は、友達を連れているらしい。友達は同じく小柄で、ツインテールだ。確か隣のクラス、つまり翼と同じクラスの空野雫だ。北川は俺に語りかけてきた。
「風矢君、大丈夫なの?」
「え!?」
 北川から話しかけられるだけでも予想外なのに、翼の名を出されて俺は飛び上がった。
「雫から聞いた。風矢君、保健室でぶっ倒れたらしいじゃない」
 空野もおずおずと話し始める。
「何か、今日風矢君とっても調子悪そうで、保健室行って……」
 翼の奴、学校来てたのか……。
「帰ってこないなぁとか思ってたら保健室の先生が鞄取りに教室に来て……早退するからって。聞いてみたら、保健室入った途端に、ばたーんって倒れちゃったんだって」
「もう、翼帰ったかな?」
 俺は声が震えないようにするので精一杯だった。
「多分……」
 空野は心配してくれてるのか、声がか細い。
「蒼井君、今日はいつもの元気がない。雫によると、風矢君は首に大きな傷を負っているらしい。何かあったの?」
 淡々飄々と観察結果を並べてくる北川。その語り口調も、今は面白いと笑えない。
「なぁ、空野。翼、クラスでどうしてるよ?」
「いつも一人で本読んでる。時々、クラスの人に絡まれる。たまに一人で怖い顔してる」
 やっぱり、立場は悪いのか。
「……今までそんなこと全然言ってなかった」
 全然言ってなかった。心に重いものが伸し掛かる。苦しい。
「蒼井君、よかったらどうぞ。雫が描きました」
 唐突に机の上に紙が置かれる。紙には絵が描かれている。
「ありがと……これ、翼?」
「うん」
 普通に漫画の表紙になっててもおかしくない程、高いクオリティの絵だった。はっきりした線で、翼の生えた翼が描かれていた。
「ほら。蒼井君ちょっとは元気出たじゃない」
 北川が空野に言う。元気づけようとしてくれたのか。
「これ、翼にあげたら?」
「風矢君、女子嫌いみたいだから近付きにくい」
「あぁ……そうな。昔からそうなんだよ。中学入ってから本当に酷くなって……」
 それは何故だ? ……俺は翼のこと、何も知らない。あんだけ一緒にいて、何も知らない。
 だって、話してくれない。
「でも、物理的に近付かなければ大丈夫かも。机の中にでも入れといてやって」
「わかった」
 頷いて、二人は俺の席から去ろうと歩き出し、不意に北川がこちらを振り返る。
「風矢君は、蒼井君を信用してない訳じゃない」
 またこちらを見透かしたようにそれだけ言って、去って行った。北川……。
 そこに友達の涼がやってきた。
「あの二人、実は美少女だよな。クラスのアイドルだけでなく、こう隠れた魅力を楽しむのもいいよな!」
 実に能天気なことを言われ、俺はまた和んだ。


 パニックが過ぎれば、また無感覚が漂っていた。何事もなかったかのように、感情の波は平らだった。慎吾に休めと言われたのに、何故かふらつく足取りで学校へ行った。
 首の傷を笑われた。いじめがテーマの小説を読んでいたら、暗いと笑われた。更にパソコン部員に、おかしな小説書きそうと笑われた。
 言われた時に不快な気持ちが湧いたような感じがしたが、すぐに消えた。自分の心に響かないまま、しゅっと霧散した。
 ガーゼの下、傷が痛いなと思った。背中も痣になっているのか、鈍い痛みを感じた。
 ベッドの上で、しばらくその痛覚だけ辿っていた。
 何故か安心した。
 主人公や登場人物が精神的に追い詰められる小説を何冊も読み、感情移入した。何故か落ち着いた。
 それを読み終えたら、次は爽やかな青春小説を読んだ。物語に入り込み、自分が楽しい日々を過ごしている気分になった。
 本から意識を逸らすと、また無彩色の世界が広がってしまう。だから極力物語に意識を向けていた。母が仕事をキャンセルして家にいる。とても申し訳ないことをした。きっと慎吾もまた心配する。最悪な奴、と自分をなじった。そして無彩色。目線をまた小説に落とす。物語に入っていく。全身全霊を浸す。自分の感情は本の中だけに存在する。現実には存在しない。だから読まないと世界が消えてしまう、気がした。気がしたけど、それもまたすぐに消える。本を読んで湧いた感情なのか、現実で抱いた感情なのか、判別がつかなかった。
 その作業を繰り返す内に、現実に戻っても小説の世界が広がっているように思えてきた。何故だか呼吸が楽だ。生きている気がした。気がしたけど、やはりすぐに消える。一瞬で通り過ぎる。


 緊張マックスで、翼の部屋を訪問。翼はベッドの上で脱力しきった姿で座っていた。髪も乱れて、若干よれよれの長袖Tシャツを着ている。
「来てくれたんだ」
 そう言ってこちらに笑いかけるが、目が全く笑っていない。真っ暗な大きい目。
「聞いたぞ? 保健室で倒れたって。休んでろって言ったのに」
「ごめん」
 翼のハスキーで優しい声がぽつり漏れて、漂った。
「迎えに来てくれたんだろ。行こう?」
 いきなり手を引かれる。
「何処へ?」
 尋ねると、翼は窓の外を指差した。日は暮れ、景色は夜空。その先に月が浮かんでいた。外にでも出たいのだろうか。
「夜なんだからカーテン閉めようぜ」
 俺は窓に近寄ってカーテンを閉めようとした。また手を引かれる。そのまま翼の隣に座った。
「行かないの?」
「だから何処へ?」
「月に行くんだろ?」
「えぇ!?」
 思わず大声が出た。な、何を言い出しちゃったんだ……!? 翼は俺の反応に、怪訝そうに首を傾げた。最近、立場が逆転している。今までは俺が間違い発言をして、翼が笑いながら訂正していた。翼は冗談なら言うけど、本気でおかしなことを言う人ではない。
「あれ……あぁ、ごめん。小説の話だった」
「えぇ!? 何だよそれ!」
「何かごっちゃになった」
「小説と現実がってこと!?」
 翼が傷付いたように頷く。
「驚いたけど引かないからヘコむなよ」
 わしゃわしゃと翼の頭を撫でる。何だよ、やめろよーと笑うこともなく、払おうとすることもなく。翼はされるがままだった。綺麗な人形のようで、生気がない。あの時と同じ。首筋のガーゼの奥、傷から溢れる血を思い出し、胸が苦しくなった。
「翼さ。何があったかは言わなくてもいいけどさ。辛い時は辛いって言おうぜ?」
「俺が? 辛いの?」
 訊かれた。逆に問われた。
「凄く苦しそうだ」
 答えた次の瞬間、視界がぐらりと揺れ、真っ白になった。肺がつまる。少し遅れて翼の腕が見えた。その手が俺の喉を押さえつけ、締め付けている。苦しくて身を捩ったが、上に跨られていて動けない。何とか翼を窺った。綺麗な顔は微かな憤りを宿しているようで、動揺しているようで、泣きそうに揺らめいているようにも見えた。多分、翼は本気だ。本気の翼に勝てる訳が、ない…………
 激しく咳込んだ。呼吸のリズムが掴めないままに喘いで、気を失っていたことを知った。
「…………ごめんなさい」
 ぼやける視界に、顔面蒼白で項垂れる翼がいた。何故か震える右手をかじっていた。無心に歯を立て、食い込ませていた。歯型だけでなく、その手首に痣と切り傷が見えて、俺の顔から血の気が引いた。
「……どうしたらいいかわからないんだ」
 噛みついた部分に赤い花のような跡が散り、右手は浸食されていった。
「……自分で自分が全くわからない……」
 上下する胸を押えながら、俺は身を起こす。腕を伸ばし、翼を包んだ。
 どうしたらいいかわからない翼に、俺もどうしたらいいかわからない。
 ただ、何故だろう。何も考えずこうやって抱き締めたら、翼は少し落ち着くようだった。
「慎吾は優しいだけで。俺は大したことでないのに苦しんで。そんな優しいこと言われたら甘えそうで。また一人で苦しいと喚きそうだ」
「喚いてないだろ」
「喚いてるじゃん」
「いいじゃん喚いたって」
「俺はこれ以上甘ったれたくないし、駄目な奴になりたくない」
「何でそんなこと言うのかわからねぇよ」
「駄目な奴だからだよ」
「駄目じゃないだろう」
「慎吾は優しいだけだ」
 平行線。会話は途切れる。トイレに立つ。出てくると翔が部屋から顔を出していて、こちらに手招いた。翼の部屋から出て突き当りにトイレがあり、その右手に翔の部屋がある。部屋にお邪魔する。
「慎吾君、大丈夫?」
「へ?」
 黙って首を指差される。手を当てると先程の圧迫感が思い出された。きっと跡か何かができているのだろう。
「お母さんに慎吾君夕飯食べるか聞いてこいって言われて。お兄ちゃんは要らないだろうけどって。でも、なんか、お兄ちゃんの部屋……不穏だったから、入れなくて」
「あぁ……ごめんな。大丈夫だよ」
「お兄ちゃん、最近ご飯が美味しくないみたい。お母さんのオムライスでも嬉しそうじゃないんだ」
 翼の母さんお手製オムライス。翼の大好物。俺も大好きだ。でもあの翼の様子を思い出すと、何事にも喜ぶ気がしなかった。
「お母さんも最近お兄ちゃんが元気ないって心配してる」
 翔は眉を下げ、円らな瞳で一生懸命話してくる。やっぱり家族も心配なんだな。ただ……それを知ったら、翼は余計に隠すだろう。容易に想像がつく。
「大丈夫だよ。ちょっと俺が家に来る回数増えるけど」
「いいよ。慎吾君がいればお兄ちゃんも嬉しいもん!」
 頭を撫でてやると、にまーっと笑顔を浮かべた。可愛い奴だ。俺は翼の部屋へと戻った。今度は右手の傷も手当てした。やはり翼は嬉しそうだった。

「後でガーゼ変えてやるから」
「うん」
「そろそろ……帰るな?」
「うん」
「マジで今日こそちゃんと休むんだぞ?」
「うん」
 いまいち信用できなかったので、翼を横たわらせ、布団に押し込む。
「俺は翼の味方だからな」
「……ありがとう」
 何もしてやれない。ずっと一緒にいることすらしてやれない。でも、俺は、出来ることを精一杯するよ。小さなSOSも、全力で受け止める。
「大丈夫だからな」
 心はいつでも寄り添ってるよ。親友、だからな。


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