風呂から上がったら、先に入ってたお風呂上がりの翼は本に囲まれていた。
 しゃがみこんだ翼の周りを積まれた本が囲んでいる。囲まれた翼は読んでいる本を置いたと思ったら、冷蔵庫から部屋まで持ってきた緑茶のペットボトルをグラスに傾けた。
 なみなみついだそれを、一気飲みする。そしてまた本を読み始める。俺には気付かない。
 うわぁぁぁぁ変なもの見ちゃったよ!!
「翼さん? できれば帰ってきてください!」
「ん? あぁ、慎吾。出てきましたか。お茶飲もうよお茶」
「おぅありがと……帰ってきてくれたよ良かった」
「俺は何処から帰ってきたんだ?」
「翼ワールド。本そんなに面白いか?」
「超面白い!」
 翼の目がキラキラと眩しく輝いた。最近暗い表情ばかりだったから、その輝いた目にちょっと安心した。
「俺は本読んでれば幸せです。後、慎吾といる時」
「とってつけたようだけど、ありがと」
 嬉しくなって、俺も笑った。
 それから色々な話を重ね、俺はふと翼に尋ねてみた。
「何で俺達は勉強しなきゃいけないんだろな。よくある疑問だけど、大人になるのに必要な知識とも思えなくね?」
「わからないから勉強するんじゃないかな」
 翼は久々に得意のマシンガントークをしてくれた。
「将来何の仕事したいとか大人になって何したいとか何してるとか、正直全くわからないじゃん。でもさ、何の勉強でもなんでもやっとけば、その中から見つかるかもしれないし。それに勉強しとかなきゃなれないものとかあるじゃん? 後になってからそれになりたいと思って手遅れだったら最悪じゃん」
 わかったような感じはした。翼の言うことは大抵説得力がある。
「若き俺達。勉強がその可能性とかこの先選べる道とか増やしてくんだろ。土台ってやつ、土台ないと上にも積めないってやつ。勉強しといて損はない。そういうシステムになってるんだろ、取り敢えず」
 多分わかった気になってるだけだ、俺は。頭の悪い俺にはちと難しい。
「わからないからこそやっときゃいいんだよ。目の前にあることやっときゃさ。それができずに何が言えるよ」
 翼は話し終え、恐らく呆けた顔をしている俺をじっと見た。
「長々意味不明なことをごめん」
「いや、翼って大人だな」
「そうかぁ?」
 常々思う。翼は俺とか他の奴より大人で、色々考えてて知ってて理解してて。頭いいから? 本いっぱい読んでるから?
「あらゆる本の受け売りとか借り物なんだけどな」
 一部当たっていたようだけど。……本読めば賢くなれるのか?
 翼の部屋の三分の一はベッドで、三分の一は本棚とピアノで、残り三分の一の空間がある。そこに俺の布団(慎吾専用)を敷く。俺が布団に潜り込んでから、翼は再び読書を開始した。傍らにはあの緑茶。読む、飲む、読む、飲む……。
「寝ないのか?」
「読んだら寝る」
 あなた、読み終わったら次の一冊読み始めるじゃないか。読み終わる日は来るのか。夜は明ける時が来るんだぞ。と言おうと思いながら、俺は眠りについていた。


 慎吾は細い目を閉じてすーすーと寝ている。部活で疲れているのか熟睡している。翼は未だ本を読んでいる。かじりつくように本を読み、時折トイレに立ち、緑茶を飲み、また固まったように本を読んでいた。
 ちらり時計を窺い、その度に身を震わせた。夜が更けるのを、時が進むのを、恐れるように。
 そして恐怖から逃れるかのように活字の中に潜り込む。物語の中に身を隠す。そこにいれば安心だった。そこだけが安全だった。だから居場所だった。
 朝が怖い。一日が始まってしまうのが怖い。日常が流れてくるのが怖い。
 わかっていた。単純に学校が嫌だと。
 ――でもどうしたら? 逃げ場なんてないじゃんか。こんな些細なことにも、耐えられない俺に……
 全身を蝕む焦燥感。発狂しそうな感覚を何とか繋ぎとめているのが、本だった。本を読むことでなんとか毎晩やり過ごしていた。
 夜は明けていく。薄闇の中に陽の気配が現れ始め、空は深い群青色へ光っていく。
 絶望色と呼ぶには、美しすぎる色だった。


 俺は走っていた。がむしゃらに足を動かしていた。やがて翼の家の前に来た。あぁ、走っていたのは通学路だった。家の前で翼はしゃがみこんでいる。近寄ると、顔を上げた。
 大きな目から頬へ、涙が伝っていた。涙は次々流れて、ぽたりぽたり滴り落ちていた。
 涙も滴る翼は、俺に気付いて一瞬震えた。
「どうしたんだ翼、大丈夫か?」
 翼は何も言わず、俺のところに飛び込んできた。
「よしよし。泣くな泣くな」
 頭を撫でたり背中をさすったりすると、翼はたがが外れたように泣いた。溢れる感情を止めることができないようだ。
 感情的な翼なんて、見たことなかったな。何でこんなところで泣いてるのかな。そもそも何故こんなに泣いてるのかな……

 ……ゆ、夢だ。起きた。夢だった。目を覚ませばそこは翼の部屋。ベッドの方を向くと、翼が縮こまって本を読んでいた。デジャブ。そして目覚めた俺に気付いた。
「おはよ」
「おはよ……お前さん、まさかの徹夜ですか?」
「夜を徹しました」
「おいおい大丈夫かよ? 今日も学校だぜ?」
「大丈夫です。若いから」
「そうなの? まったくもう……」
 翼の泣き顔が頭を過ぎった。もしかして、夜ずっと泣いてたんじゃ、と思ったけどそんな様子もない。そんな様子はないけど、心配になった。
「俺はおかしいからな」
「はい?」
「そして弱いし暗いんだ。慎吾にも心配かける。ごめんな」
「いや……別に……」
 言葉の意図がわからなくて、俺は考える。また頭のいい、難しい話なのだろうか。上手く言葉が返せなかった。
 翼は寂しそうに肩を落としていた。


 慎吾に何か言ってもらいたい気がした。それがどんな言葉なのかはわからなかった。
 翼はそそくさと支度する慎吾を眺めていた。今日も朝練があるらしい。比較的運動が苦手な翼は、よくもまあ朝から活動できるものだと感心した。
「まだ時間あるから、ちょっとは寝とけよ?」
 こくり頷いた。泣きたいような気がした。でも涙の気配はなかった。何故泣きたいと思ったのかもわからなかった。ただ慎吾の目を見たらそう感じたのだ。
 ――こんなんだから心配かけるのか。やっぱり俺は駄目な奴だな。弱くて暗くて駄目な奴。
 朝になってしまう頃には、いつも疲れ切ってしまう。恐怖も、焦燥も、絶望すら湧かない。そうしてやっと眠る気になる。
「うぉっ、動かないと人形みてぇ。目が怖いよ、うつろだよ、やっぱり寝とけよ!」
 ばたばたと出ていく慎吾を見送った。母も弟もまだ眠っている。
 翼は布団の中にいそいそと潜り込んだ。

 クラス替えへの希望は、残酷なまでに打ち砕かれた。とにかくクラスの雰囲気が悪かった。嫌がらせ主要メンバーがほとんどいた上に便乗するものが増え、一年の時よりも翼の立場は落ちていた。一番の痛手は、慎吾が違うクラスになってしまったことだった。味方も拠り所もなくし、翼は一人席で本を読み続けていた。部活はパソコン部に所属していて、ひたすら小説を量産していた。そして慎吾の部活終わりを待ち、一緒に帰った。
 慎吾といる時だけは楽しい気分ではあったが、ふと一人になるとその気分が思い出せなくなった。本を読み、小説を書き、ふと作業を止めると、知らない場所に来たかのようだった。
 どうにも嫌な予感が過ぎっていた。

 部活終わりだった。日が傾き、夕陽が校舎を照らしていた。翼は家に帰るべく、廊下を歩いていた。すると、クラスの女子が声をかけてきた。
「ちょっと手伝ってほしいから来てくれない?」
「何を?」
「いいから」
 不審に思いつつも女子の後をついていき、教室に入った。夕陽は教室にも差していて、視界を橙色に染めていた。見たところ、教室には誰もいなかった。
「え、何する訳……」
 言いかけた翼の背中に、強い衝撃が走った。バランスを崩して倒れこみ、何とか振り返ると、椅子を手にしたクラスの男子が見えた。そして他の男子、女子も教室に入ってきた。一見真面目そうな見た目の者から、不良まで様々だった。一年の時に後をつけてきた上級生達もいた。
 戸惑い、痛みにうずくまる翼は仰向けに倒され、手首と足を押さえられた。抵抗して身を捩らせるが、押さえる力が強くなるだけだった。カッターの刃も向けられた。
 不覚だった。最初の油断がなければ振り切る自信が翼にはあった。
 男子の一人が馬乗りになり、翼のブレザーとシャツのボタンを外した。尚も抵抗する翼の耳にシャッター音が響いた。
 目線を上げると、ギャラリーが笑いながら、抵抗する翼の姿を携帯やデジカメに収めていた。
 憤る自分に、翼は激しい羞恥心が湧いてきた。例の違和感も襲ってきた。憤る少年を見ている自分がいた。抵抗する気力が消えていく。
 そのうちに、次は女子が翼の上に乗ってきた。女子は甲高い笑い声を上げながら、翼の顔や体をあちこち触っていた。
 ギャラリーの嘲笑とシャッター音は増していく。翼の羞恥心も、増していく。
 翼は、湧き上がる憤りを噛み殺そうとした。噛み殺しては湧き上がり、湧き上がっては噛み殺した。必死に飲み込んで飲み込んで、最後は左目から一筋、涙が零れた。
 それきり、翼は自分の抱いている感情がわからなくなった。心の中が、空っぽになった。怒りも違和感も羞恥心もなくなりただ、空っぽになった。自分の中の水分という水分が引いて、乾いて、からからになった。目に映る色は彩度を失っていき、何色も映らなくなった。
 狂った祭はエスカレートしていった。翼はそれが他人事にように自分の間を通り抜けているようにだけ感じた。感覚も感情も離れてバラバラだった。

 しばらく経つと、空っぽの翼に、ある思考が覗き込んだ。がらんどうのそこに、ぽかんと投げ込まれた。スイッチを押されたようだった。
 ――俺は、本当におかしくなった。
 ――俺は、終わったんだ。
 ――俺は修復不能なまでに壊れてしまった。終わった人間だ。
 ヒートアップする祭の傍らで、翼は踊り出て暴れ回る思考に翻弄されていた。翼が抵抗をやめたので、手も足も既に押さえられていなかった。翼はおもむろに立ち上がった。
 再び押し倒そうと近寄ってくる人間を、翼は片っ端から倒していった。男女問わず、体に拳や蹴りを叩き込み、腕を捻り、容赦なく倒していった。反撃の隙も与えない素早い動きだった。数分も経たないうちに、祭りの参加者達は床に倒れていた。予想外の出来事に、皆一様に翼を怯えた目で見ていた。喧噪は遠のき、密度の濃い淀んだ空気だけが残った。
 翼は服の乱れを直し、鞄を掴んだ。最後にギャラリーを一瞥した。翼の目は、命を失ったかのようだった。
 夕陽が眩しく、目に焼き付いた。翼は教室から走り去った。

 駆けた。足をもつれさせながら地面を蹴り、ただ前へ進んだ。何も見えなかったし何も聞こえなかったし、何も感じなかった。他にすべきことなど一切考えず、思いつかず、家に飛び込んだ。まずトイレで盛大に嘔吐し、制服を脱ぎ捨て激しい勢いのシャワーで頭から湯を浴びた。引っ掴んだ服を着て、部屋に入り、ドアを閉めた。すると糸が切れたように力が抜け、翼はその場にへたり込んだ。動作を止めた瞬間、隅に追いやっていたパニックが再び襲う。
 そこからの記憶は断片的で、慎吾に電話をかけ、何を話したかは覚えてなくて、自分を汚らわしく感じて、腕に強く爪を立てて、部屋にあったペットボトルの水を飲もうとして失敗して、ペットボトルは転がって、水が床にごぽり零れて、少なかったから本は無事で、掌に血が、慎吾、慎吾……


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