翼が戻ってこない。電話にも出ない。
 誰も翼の行方を知らない。
 慎吾、涼と泰則。そして雫と北川を中心とした文芸部は密かに翼を守っていた。
 ストーカーの話を聞いてから、極力校門の待ち伏せを防いだ。校内の翼ファンが行き過ぎた行為に走らないように統制した。
 中学の時みたいに、一人で何でも抱えないでほしかった。

 慎吾に連絡を入れ、涼と泰則は学校周辺を走った。涼が翼の通学路を知っていたので、それを辿る。
 公園の前、翼の自転車が倒れている。持ち主はそこにいない。公園に入る。翼はすぐに見つかった。
 惨状、そう呼ぶのが的確だった。

 病院の一室。眠っている翼。そんな翼の脇で突っ伏して寝てしまっている翼母。少し遠くから慎吾がそれを眺めていた。
「無事でよかったな。翼の母さん、すんごい心配してたぞ。二度目だったんだな。お前が小さい時から護身術やってたのって……お前の母さんが翼の身を心配してのことだったんだな。お前は、大人になったら稼ぐんだろ? 稼いで、母さんを楽にしてやりたいんだろ? 一生養ってやろうと思ってるんだろ? 死んじゃったら駄目だもんな。お前まで死んじゃったら……駄目だもんな」
 何故か急に涙が込み上げてきて、慎吾はその場を立ち去った。涙を止めることはできなかった。


 ――ここは、何処だろう?
 翼は考える。ふわふわとした気持ちが全身に漂う。周りは白いもやがかかっているように思えた。
 何故だかその場所になんの疑問も湧かなかった。目の前に人がいる。翼を少し大人にしたような感じの、その人。
「……父さん?」
 翼は恐る恐る呟く。目の前のその人は綺麗に微笑んだ。そして言った。
「何でお前がまたここに?」
「はい?」
「小羽は?」
「え、母さん……?」
「何で小羽より先に翼が来るんだよ!」
「はぁ……」
 ここで翼は気付いた。ここは、天国なのかな。父さんがいるところに、俺はいるのかな。
「翼が先に来たら、夢だった小羽と『天国で二人きりライフ☆』が! 叶わないではないか!」
「はぁ……」
 完全に目の前にいるのは自分の亡き父親だ。母親に聞いた通りだ。
 確かにあの母に合わせられるのはこの父で、この父に合わせられるのはあの母だ。
「大体お前、六歳の時も来ただろー」
「……覚えてません」
「俺に顔が似てしまったばっかりに苦労しちまってよ」
「父さんに似たことを恨んだことはない。何があっても。俺は父さんの生き写しで、翔が父さんの生まれ変わりで。それで母さんが救われてるなら、俺は父さんに凄く似ていることを感謝してる」
「いい息子だなぁ。我が息子ながらいい息子だなぁ。おしっ。じゃあ地上に帰れ」
「はぁ……」
 もし父さんに会えたら。聞きたいことなんてたくさんあった。やりたいことなんてたくさんあった。
 でも今、そのどれもができずにただ父親のマシンガントークに、翼にそっくりの早口マシンガントークに、ひたすら相槌を打っていた。
「俺の年を越せ。二十九なんてすぐだ。あれ? 俺二十九だったっけ? まぁいいや。俺の分まで生きて、色んな世界を、色んな色を見てくれ。で、小羽を守ってやってくれ」
 翼は、大きく頷く。それを見て同じ顔の父親はまた綺麗な顔で微笑んだ。翼は父の方へ手を伸ばす。触れそうな瞬間――
「悪いことはもうおしまいだ」
 優しい声が足の下から脳天へ突き抜け、体が浄化される感覚が襲い――
 夢だと知った。
 目を覚ましたら、そこはまた病院だった。次に目に入ったのは母親だ。翼はまず思った。
 ――寝ている?
 取り敢えず、出せる限りの声で呼んでみる。
 出せる限りの声だったが、小声だった。
 目を覚ました母は、翼を見て目を潤ませて、抱き締めた。あの時と、同じように。

 平静を装っていたが、実際は動揺しきっていた。交通事故だと聞いた。また交通事故。記憶は無い。記憶のピースがまた抜けた。目を覚ましたのは、事故の翌日だという。
 慎吾の前では動揺を表に出し、泣きついた。
「俺、また俺がわかんなくなりそうだよ……! なんで、こんな、記憶が無くなったりするの? 俺はおかしいの?」
「右腕、痛そうだな。怪我した時はもっと痛かっただろうな。そんな記憶、無くてもいいんじゃね? ある方が困るって。あったら自転車怖くて乗れなくなるかもしれないぞ? そしたら通学はどうする? あ、お前んとこは近いから徒歩で平気か。じゃあ通学じゃなくて、ちょっと遠い本屋とかどうやって行くんだよ。免許取れるまでまだ二年。運転も怖くなってるかも! うわー俺だったら無理だわー」
「…………」
「無くて差支えない記憶なんだよ」
「綺麗にまとめたな」
「北川がな」
「北川ぁ!」
 そんな感じに励ましてもらった。
 涼と泰則も来てくれた。涼は開口一番謝り始めた。
「ごめんな……俺のせいで……ごめんな」
「そんな! 全然涼の所為じゃないよ!」
 揃った三人から、裏で守っていたことを告げられた。三人が隠していたことはこれだった。
「隠しててごめんな。という訳だから、一緒に戦おうな。困ったことがあったらすぐ言うんだぞ」
 欠けたピースと関係あることに気付いた。すると胸の奥の方から、「大丈夫だよ」と声がする。無くした記憶に想いを馳せると、いつも聞こえていた。この声を聞くと、すっと落ち着いた。自分の声に聞こえたので、自分に言い聞かせてるのかなと考えた。
 三人と話していると、日常に帰って来たようで心が和らいだ。落ち着いてしまったせいか、逆に考えが進んでいく。一人残った慎吾に問いかけた。

「……事故ってさ、ストーカー関連?」
「ち、違うよ」
 慎吾の瞬き。
「……わかった」
 微かな確信に胸が騒ぐ。「大丈夫」、また声がする。
「大丈夫、大丈夫だよ」
 胸がかき乱される程、声も回数を増して響く。声は最後にこう告げた。
「悪いことはもうおしまいだ」
 ばちりと目が覚める。今まで眠りの浅い、悪い夢を見ているようだった。欠けたピースに意識を向けても、もう嫌な胸騒ぎはしなかった。
「慎吾、俺はもう事故に遭わないよな?」
 慎吾がはっとした表情になり、泣きそうな目になる。翼の小さな確信に気付いたようだった。
「遭わない。遭わないよ。もう大丈夫だからな」
 今にも泣きそうな声を出しながら、慎吾は涙を必死に堪えていた。
 これが答えだ。ただの事故じゃない。でも、もう大丈夫なのだ。それが答えだ。それで十分だ。
「……ありがとう、慎吾」

 慎吾や母や翔が帰って一人になってから、翼は病室を抜け出した。病院の屋上に上がり、縁から外を眺めた。
 何でこんなに俺は親切にされているんだろう。ストーカーされたりすぐ体調崩すような、面倒な奴なのに。
 ふとそんなことを考えた。今までだって思っていたことだ。今回だって、きっとたくさん助けてもらったのだ。
 扉の開く音がする。翼はびくっと肩を上げ、それから振り返った。そして更に飛び上がった。
 そこには、空野雫がいた。雫も驚いている。
「蒼井君と、ね、待ち合わせしてたの。でもなんか迷子になっちゃって……そしたら何か風矢君の香りがしたから辿ってみたの。ビックリしたぁ……」
 ――そうでしょうね!! こっちもビックリだわ!!
「まぁ、私だからーぐふふっ!」
 驚愕が過ぎると、あることに気付いた。
「もしかして、空野も俺を守ってくれてたの?」
「う、うん」
「どうして……?」
「大好きだから!」
 いつもの答えが返ってくる。翼は更に問いかける。
「何でこんな俺なんか好きなんだよ」
 普段は流すところを、今回は真剣に問いかけた。雫の目も真剣になる。
「中二の時、いじめられてたって程じゃないけど……パシられてたというか、いじられてたというか……今思えばいいように使われてたの。使いに走らされたり、悪いことは全部私の所為にされて……そんな感じ。私へらへら笑ってるだけだったけど、凄く辛かったの」
 知らなかった。同じクラスだったのに。当時の翼は周りも自分も見えていなかったことを思い出す。
「そんなある時、一人で本読んでた風矢君が突然こっちに言い放ったの。『なんでも空野の所為にすればいいから、楽なもんだよな』って。私も馬鹿にされてたけど、正直風矢君はもっと馬鹿にされてたから、みんな怒ってた。でもみんな、最後は何も言わなくなった。私は一人ぼっちになったけど、すっきりしたの。気が晴れた。あの日から風矢君は、私のヒーローなの!」
「じゃあ俺の噂も知ってるの?」
「……うん」
 それから雫は、思い出話を再開した。

 雫は、翼の観察を日課と、生き甲斐と、学校へ来る意味としていた。
 なので、翼の噂くらい実は知っていた。例の、噂である。虚実入り混じった風夜叉伝説。
 雫の楽しみの一つに、『翼の着替えを観察する』というものがあった。
 翼は、他の男子も大体そうだったのだが、ワイシャツの下に何も着ていなかった。
 なので、ワイシャツから体育着へ着替える時、一瞬に近い時間ではあるが、上半身裸が見られる。
 雫は翼のそれを見るのが楽しみだった。
 ある時、いつものように翼が着替えている時。雫は北川を観察に付き合わせていた。
 輝く瞳の雫と、しぶしぶ目線を向ける北川の二人が翼の観察。
 ワイシャツを脱いで、体育着を着るまでの一瞬。背中に大きな痣を見つけた。
「か、風矢君、あの痣どうしたんだろ」
 雫は慌てる。北川は何事もなかったかのように構えている。
「打撲でしょ」
「何で!?」
「ぶつけたとかじゃなく、殴られたとかだろうね」
「何で!?」
「第六感が告げる」
「何で!?」
「いや……告げるから」
 会話が成り立っている奇跡。
「首も怪我してるし、右手首も怪我してるし、右腕もちょっと傷あるし、何故かピアス開けてる、でもピアスしてない。自分でやったのかなぁ……?」
「一番観察してきた君はどう思う」
「え……風矢君はきっと酷いことされたんだと思う……。それで抵抗しただけだと思う。自分で傷付けたとしても、それだって酷いことされたからだと思う」
「風矢君に感謝してるんでしょ? なら信じる気持ちは正解だと思う。もし事実が違ったとしても、信じたことは間違いじゃない」
 どんな噂を聞いても、雫の気持ちは変わらなかった。雫の目はいつだって翼を真っ直ぐ見ていた。

「お前、人の着替え見てたのか」
「そこは気にするなっ!」
 大きくため息をついて、翼は過去の真相を話した。全部話すと決めた。
「ピアスは開けろと言われたから、安全ピンで耳刺した。もう塞がったけど。手首もその時切れと言われて、切った。言われなきゃ傷跡は見えないと思うけど。右腕は自ら引っ掻いた。首のは……」
 言いよどむ。でも全部話すと決めた。それは揺らがない。
「死のうと思って、自分の意志でやりました。止めが入らなかったら、病院送りくらいのことにはなってたと思う」
「……うん」
「それでも、俺を好きって言える?」
「言えます。風矢君は悪くない」
 はっきりした言葉に、翼は派手に壁を壊された気持ちになった。
 申し訳ないとばかり思っていた。助けてもらって申し訳ない。好意を寄せてもらって申し訳ない。
 でもすべきことは違った。
 そう思う分、感謝すればいいのだ。いつも繰り返していた言葉に、ぐっと力を込める。少しでも、想いの大きさが届くように。
「ありがとう、空野」

 そこに慎吾が現れた。
「あぁぁ! 空野いた! 時間になっても来ないから探しちまったよ!」
 翼は尋ねる。
「どうしてここが……?」
「翼のとこかなと思って」
「どうして俺がここだと……?」
「勘」
「何なんですかアンタ達は!!」
「えぇ? ……翼愛好会? 翼を愛してやまない会!」
 翼は笑った。くだらないなぁと笑った。同時に、叫びだしたいほど幸せだった。
 雫は慎吾に何物かを託して、去って行った。
「何でこんなところに?」
「俺が一人でたそがれてたら、空野が出た」
「何故わかった……」
「私だから、だそうです」
「あぁ……」
 何故か納得のいく二人。
「で、空野とは何の用だったの?」
「描いたから渡したかったのだそうだ」
 慎吾が絵を渡してくる。翼は目を落とす。
 雫独特のはっきりした色使いで描かれたイラスト。かなりカラフルだ。
 真ん中に翼に似た少年がいる。切なげな表情で微笑んでいる。カレイドスコープを連想した。
 二枚目は、深い青が基調となっていた。王子ルックのやっぱり翼。右手に本を、左手に万年筆を持っている。
 万年筆をダーツの矢代わりに投げるかのようなポーズだった。
「翼に合ってるな! さすがだな!」
 慎吾も絵を覗き込んで笑った。翼の目も輝いていた。そして二人はいつもの台詞を言う。
「やっぱり絵『だけ』は上手い」


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