学校では相変わらず。女子に怯えながらの生活。
 それでも、文芸部の女子にだけは普通に付き合えるようになってきていた。進歩だろう。
 翼に理解を示してくれた文芸部女子メンバー達と、先輩。文芸部は翼の安息の地だ。
 何があっても、ここで休めばまた頑張れる。

 期末テスト最終日。早く学校が終わる上にもうテスト勉強をする必要がないという最高の日。
 翼は一人でケイトモールに行っていた。また翼に視線を感じる。気にしないように神経を使った。翼は悩む。
 ――やっぱり俺が神経質になってるだけなのか?
 プラプラ散歩。ミスドーナッツ、通称ミスド。ケイトモールを出てすぐにある。
 そんなミスドで何か買って母と翔と食べようかとか考えながら、翼はミスドへ入って行った。
 ショーウィンドウにドーナッツが並んでいる。ウィンドウ越しに注文ができる。
 テスト期間なため、他の学校の高校生もたくさん並んでいた。
 そこには、翼の知った顔がいた。北川だ。ドーナッツを買うようだ。
 相手も翼に気付いた。
「あらら。風矢君」
「奇遇ですねぇ」
 そこから二人は言葉を少し交わす。やっぱり慣れてきたようだ。
 ふと北川は言葉を切って俯き、翼の方をじっと見た。 
 そして問いかける。
「一つ、聞いてみていいですか?」
「はい」
 突然の質問に何故か改まる翼。
「雫はさ、美青年だと思ったら即座に飛びつくじゃない?」
 翼はガクガクと何度も頷く。泰則や翔。餌食は何人も簡単に思い浮かんだ。
「風矢君にだけは、ほとんど触りもしたことがないって気付いてた?」
 翼はふと全ての動きを止める。そして答える。
「気付いてた」
 怪しい発言ばっかりするくせに、飛びつかれたりしたことはなかった。気付いていた。
 携帯で撮られたのもあの一度だけ。カメラが苦手と話してからは、向けたことがなかった。気付いていた。
「なら、いいんです」
 そう言ってから、ドーナッツを頼み始めた。
 翼の頭には、雫に関する疑問が浮かび上がっていた。
 翼も注文をして、ミスドを後にした。

 期末テストが終わると、終業式まで授業が半日になる。普段六十五分の授業が五十分になり、四時間で終わる。
 多少長く感じるが、気のせいということにする。
 一年生必修の世界史は午後に補習があるらしい。自由参加。翼はそんなに苦手でもなかったので受けないことにしていた。
 泰則も受けないらしいが、涼は受けるという。
「あのカタカナの羅列がどうしても覚えられない!」
 と本人は叫んでいる。
 そして今日は、こう叫ぶ。
「世界史の教科書家置いてきた! 今日、世界史授業になかったから……」
 泰則と翼は目を見合わせる。二人ともそんなに置き勉をしないから、世界史の教科書は手元にない。
 一応説明するが置き勉とは、学校に教科書等を置いておくことである。
「俺、十五分あれば家まで取って来れるけど?」
 翼は言う。家と学校、往復で移動時間十分。教科書を取る時間や、教室へ行く時間や、余裕を入れると十五分。
「十五分なら余裕で補習間に合うね」
 泰則も言う。昼食の時間を挟むので、補習の時間にはまだかなりの余裕があった。
「え、いいの?」
 涼も自転車通学で近いのだが、翼ほどでは全くない。
「いいよ。こういう時の地元民だろ」
 翼は笑う。きっと翼はクラスで一番通学時間が短い。学年全体だと一番ではないが。
「じゃあ、急いで行ってくる。この後も部活行くから、荷物は置いてく。最低限の物は持ってくけど」
 そう言い残して、翼は教室を後にした。

 自転車で通学路を走る。学校の周囲を辿る道。校門から右側へ。交差点を右折して真っ直ぐ。やがて学校のグラウンドが見えてくる。学校の敷地を通り過ぎると、あの一方通行の道と交わる交差点に出る。赤信号で律儀に止まる。目の前の公園に子供がいない。静けさを感じる。

 ひらり、一枚の紙が落ちてきた。
 落し物だと思ったので、翼は自転車を降りてそれを拾った。
 写真だった。
 写っていたのは、幼い翼。

 記憶の蓋が開く。

 十年前、六歳の翼は一方通行の道の脇にある公園で翔とボールで遊んでいた。
 翔が変な方向にボールを投げてしまったので、公園の外にボールが出てしまう。すぐさま拾いに行く翼。
 ボールは停めてあった車のすぐ傍に落ちていた。急いで拾おうとする。
 その時、何かで殴られる衝撃。そこからの記憶は一時途切れる。
 次の記憶は、父親の写真だった。その一室を覆い尽くすほど大量の、風矢隼翔の写真だった。

 決壊したように記憶は溢れ出す。激しい頭痛がする。自転車が倒れてがしゃんと大きな音を立てる。外界の言葉が最後に一声聞こえた。

「最後を始めよう、マイドール」

 翼の意識は記憶に絡め取られる。

 ――俺は、幼い頃、誘拐されたんだ……

 膝からがくり崩れる翼は腕を引かれる。そのまま公園の中へと引き摺られていく。
 公園内のドーム型の遊具に連れ込まれる。立っていることもできなくなり、翼はその場にへたり込む。
 声の主は屈強そうな、短髪で大柄な男だった。翼は立ち上がろうとも逃げ出そうともせず、虚ろな目で黙りこくっていた。

 写真は誘拐されていた時のものだった。
 女性に監禁されていた。
 大事に、大事に暴行されていた。

 アパートの一室のようだった。部屋中に写真が貼られていた。その全てが、翼と、翼の父親のものだった。
 ポスターも、引き伸ばされた盗撮写真もあった。
 そこで六歳のひと時を過ごした。

「久しぶりだね、人形君。何されても思い出さないのに、単語一つでこの様か。……冗談だよ。意図して封印を解いたんだ。これで最後だ。お付き合い願うよ」

 翼は右手に爪を立てる。それ以外の動きはなかった。人形、そのものだった。

「抵抗や努力が何の意味を為さないと悟ってしまった時から、君は人形になったんだ。マイドール――そう呼ばれていたね。後はもう言われるがまま。それはまるで、犯人を愛しているような……。……そうしなければ生きられなかった。人形君による精一杯のサバイバルだ」
 右手に血が滲む。
「従順になった君は、それから壊れたね。帰れないと知ったから。何より……犯人の言うことを聞く人形君はもう、『元には戻れない』と告げられたから。『あなたはもう私の仲間』だと」
 歯も立てる。右手は汚れていく。
「犯人は捕まらなかった。でも君は助かった。助かったけれど、悪夢は終わっていなかった」
 男は詩を朗読するように言葉をすらすら並べ立てた。
「君、ずっとストーカーされてるんだってね。一人は俺だ。捕まらなかった犯人と同居しててね。また君に何かしたがってたのを、写真で抑えてた。感謝は要らないよ。不思議なもので、他のストーカーと懇意になった。カスト様なんて呼ばれてね。君が一切構ってくれないと言うから、俺は秘密を教えた。簡単なことだ。人形君の鍵を教えただけ。記憶を呼び起こす鍵じゃない。人形君の無意識を開く鍵。開けば、人形君は無抵抗になる。ただ言いなりになる。そういう鍵だ。途中まではそれを利用して上手くいってたんだろうね。しかし誤算があった。もう一つの鍵に気付いてなかった。『もう戻れない』、これだ。誰かが言ってしまったんだね。これも鍵とは思わなかったから、俺は教えてなかった。一番予想外だったことは、人形君がどこぞの護身術に長けていて異様に強かったことだ。熱心にピアノ教室に通っていたようだけど、練習していたのはソナタだけじゃなかったのかな……? 結末は残念ながら予想の内だった。……そう、自らの命を絶とうとするんだ」
 消えかけた傷跡を指されても、翼は無心に右手を攻撃していた。血が細い筋になって、音もなく流れる。
「人形君誘拐の結末は覚えてる? 君は隙をついて窓から飛び降りたんだ。幸い高さがなかったから、死にはしなかった。記憶も封印された。めでたしめでたし」
 朗読は続く。
「始まりが一番えげつなかった。最初は君の父親だったんだよ。犯人は父親のストーカーだった。可哀想に、そのせいで君の父親は事故に巻き込まれた。そして君はターゲットを受け継いだ。これが全部だ」
 若干楽しそうな色を含ませた、淡々とした語り。
「人形君、文化祭の怪盗似合ってたよ。当然と言えば当然だね。だけどね、その写真で犯人は再び火がついたんだ。君の父親を思い出し、炎を上げた。もう写真程度じゃ抑えられない。俺は君の敵であるが、最後くらい味方になることにした」
 流れる血が一滴、地面へ落ちる。
「犯人は死んだよ。今日、俺が殺したから。こんなでも、俺の大事な人だった。だから俺もこの世からおさらばさせてもらう。君の悪夢はおしまいだ」
 男はナイフを取り出す。
「前の時みたいに、記憶が封印されたなかったら申し訳ないね。蓋を開いちゃって。俺は君の味方になったけど、アフターケアまではしない。人形の鍵は教えちゃったけど、記憶の鍵はこれで消える。精々封印されること、そして開かないことを祈るんだな。人形君」
 ナイフは自身に突き立てられる。
「さよなら、マイドール」


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