二日目の方が公開時間は長い。翼は部活友達と話していたり、見て回ったりしていた。先に文芸部のブースに戻ろうと一人で校内を歩いていた。怪盗姿で歩いていたのだが、またシャッター音が聞こえた気がした。不安を押し殺して、
 ――きっと友達同士で撮っている音が聞こえたんだ。
 と言い聞かせる。自分が神経質に思えて、毎度嫌になる。
 後ろから肩を叩かれ、心臓が飛び上がる。素早く振り返った。
「よぉ、久しぶりだなぁ風夜叉さん」
 その下卑た声は嫌というほど聞き覚えがあった。夕方の教室の一員だ。立ち去ろうとしたが、腕を掴まれる。
「あれは楽しかったなぁ……? 風夜叉さんったらいきなり従い出しちゃってさぁ。何でも言うこと聞いちゃうんな。ドマゾの風夜叉さん」
 翼は全てを凍らせた。表情も体も心も。六月なのに、悪寒。冷たい空気に肌を撫でられる。
 脳は停止しているようであるのに、意識の遠くで猛烈な回転があった。走馬灯のように駆け抜ける事々。暗い色の世界に落とされる。何も見えない。見えるのは闇と表現する以外に思いつかない黒。凍える。ここは寒くて真っ暗だ。酷い眩暈がする。記憶の端々が姿を現そうとしている。肺を押さえられたようになって息が苦しくなっている。次はきっと吐き気だ。
 暗転する視界に、毒々しい橙が流れ込む。嘲笑う甲高い声、シャッター音。肌に触れる嫌悪感。
「おっかしぃんな。抵抗やめたと思ったら、あんなに暴れちゃって。強すぎるよ風夜叉さん」
 その場から動けない。翼の一番の弱味だった。翼本人にも理解ができない、あの時の行動。
「翼、こんなとこで何してんの? 行くぞ」
 腕を強く引かれる。涼だった。何も言わずに翼を引っ張り、文芸部のブースに連れてきた。翼は放心状態になった。それから心配そうな涼を見て、涙がこみ上げてきた。
「涼、今の聞いてた?」
「聞いてたけど、前から知ってたよ。全部」
「俺おかしいよな。抵抗もせず言われるがままだなんてさ」
「いや、俺もその場にいたら抵抗できなかったと思う」
「そんでいきなりキレるんだ。頭おかしいよ」
「最後はちゃんと振り切ったんだから、お前は凄いよ」
 庇ってくれる涼の言葉に、懸命に止めていた涙が溢れ出す。
「静かに泣いている!? どうしたの、翼……」
 泰則も戻ってきた。
「ちょっと、暗い話しちゃっていい……?」
 頷く二人。翼は涼と泰則に、中学時代の話をした。整理したかった。それに、知りたがっているだろう二人には伝えておくべきだと思った。翼が話すのを待っていることは、気付いていた。世話をかけているのに、理由を話さないでいるのも違う気がした。
 予想通り、話を聞く二人の顔は真っ青だったし泣きそうだった。
「……話してくれて、ありがとうございました」
 でも話し終えると、二人は微笑んでくれた。だいぶ無理のある笑顔だったが。
「馬鹿……翼の馬鹿ぁ! 自分を責めるのはいい加減やめなさい!」
 涼は叫んで翼を腕の中に抱き寄せる。ギュッと。
「翼は、中学の奴らみんな、翼をおかしな奴扱いで見てたって思ってるらしいけど」
 涼の声が震える。
「俺はずっと翼のこと気になってた。慎吾がいつも話すし。顔カッコ良いし、頭も良いし、ピアノも弾けるし、文学少年だし。でもいつだって苦しそうなんだ。そりゃあ慎吾だってあんだけ心配もするわと思った。周りは翼のおかしな噂ばかり。どっから出てくんの? って思った。何を見てたらそう思えるの? って……。……三年になって、翼と同じクラスになって、友達になれて……俺、すっごく嬉しかったんだぜ?」
 周りが自分を見ていなかったように、自分も周りを見ていなかった。申し訳なさが募る。自分を、自分の感情を、捨てて目を逸らして生きていた。いつしか、大事なものまで見えなくなっていた。
「翼はとっても優しい人だよ。僕なかなか人と仲良くなれないけど、翼といる時は安心するんだ」
 泰則も一生懸命に話す。
「でも翼、苦しそうなのに隠すんだ。一人で抱えるんだ。もどかしかったよ……」
「ごめんな。……ありがとう」
 翼は泣くのをやめた。二人に笑顔を見せた。すると、二人も笑顔で返した。先程のような作り笑顔ではない。本当の笑顔だった。

「何お前サプライズ!?」
 表に戻ってしばらく。慎吾が何故だかまたやって来た。即座に雫に飛びつかれ、張り付かれた慎吾を見て翼の第一声がこれ。
「また来ちゃいました」
「もう来ない感じだったじゃんか。すっごい驚いたよ」
「いやぁ、翼に何かあったんじゃないかと」
 ここでまた、今まで見守っていた部員達の裏会話が始まる。
「恋人の勘?」
「だから恋人じゃないことにしとこうってば」
「テレパシーだ!」
「マジでテレパシーだ!」
「通じ合っている……」
「愛し合っている……」
「だから違うことにしてあげようってば」
 翼と慎吾はそんな会話も知らずに話す。
「ちゃんと俺以外にも心開けるようになったんだな。偉いな」
 翼の頭を撫でる慎吾。抱きつく翼。
「つ、翼が甘えている……」
「俺らには全く甘えてこないのに……」
「……身長のせいかな?」
「ヤス小さいし、俺も翼程高くないし、慎吾は翼より背高いし……」
 寂しそうな涼と泰則。
「……身長は関係ないかと思われます」
「北川ぁ!」
 当然の指摘をする北川。
 慎吾は零れるように呟いた。
「辛い時に泣けるようになって、本当に良かった」
 翼が次の言葉を繋ぐ前に慎吾は去っていった。そこに泰則が駆け寄ってきた。
「慎吾君って凄いね。結構経つのに泣いてたのわかるんだ」
「泣いてた泣いてた言わないでくれよ」恥ずかしそうな翼。
「僕なんか、今じゃ全然わからないよ」
「慎吾は一番一緒にいるからな。後、本人に自覚はないだろうけど、アイツは鋭いし気も回せる。勉強ができないからって自分を馬鹿だと思ってる。自覚がないよ」
 翼はニヤリと笑う。
「翼だってやたらと鋭いし、なんか大人だけどね」
 泰則は呟くが翼は聞こえていない。
「そろそろ人生悟ってそう」
 言いながら翼の肩を叩く。翼も今度は泰則の言葉が聞こえたようだ。
「まだ悟ってない。そのうち悟りそう」
「……悟りそうなんだ。まだ十六なのに」
「慎吾にはよく『なんで翼はそう人生を悟ってるんだ!』とか言われるけどな」
「……結局悟ってるのかぁ」
 翼は泰則の言葉にそれこそ大人の笑顔を浮かべる。
「また何か辛かったら話してよ?」
 首をくいっと傾けながら翼の目を見る泰則。
「わかった」
 短く返事をして微笑む翼。泰則もにっこり微笑み返す。
「ぐふっ! 可愛い、カッコいい! ぐふふっ!」
 二人のやりとりを見ていた雫が突っ込んでくる。泰則の仕草が可愛らしく、翼がカッコよかったらしい。
 泰則が雫に憑かれている。翼が必死に祓おうとしている。
 また部員の裏会話。今度はみんなで同時に一言。
「オチは雫か」

 最後にフェアウェル。エンディングみたいなもの。のど自慢や優秀団体発表やら合唱やらと楽しく騒ぐ、文化祭のシメ。
 叫ぶところで、翼は叫びまくった。文化祭で話すとは思わなかった。文化祭で泣くとは思わなかった。
 今まで濁流の中、慎吾という浮き輪一つで溺れていた。
 その浮き輪はいつしか小さなボートになっていた。涼と泰則もいる。
 そんな翼に気付いていたのか気付いていないのか、泰則がまたまったりと言った。
「翼は一人ぼっちじゃないからね」


 暗闇の中から魔物が襲いかかる。
 禍々しい呪文を唱え、俺はその言葉に生気を吸い取られていく。
 相手は暗くて見えず、どう応戦していいかわからない。一方的な攻撃が続く。

 突然、目の前に光が差した。黒い翼の天使と水色の羽の妖精がこちらを照らしてくれているのだ。
 敵の正体が明るみに出て、倒すことに成功した。
 この旅は、俺が一人で進んでいかなければならない。
 でもこの世界には味方がいた。危機が訪れた時には助けてくれる、仲間だ。


 翼は文を紡ぐ。心の彷徨いが、小説の旅路。
 文学世界を飛び回りたい。でもその傷付いた両翼は、まだ空へ羽ばたけそうになかった。

 文化祭という一大イベントが終わった後は、一学期期末テスト。文化祭終了時点で早くも二週間前となる。
 全校生徒の凄まじい嘆きと叫びと苦痛は敢えてここでは書かない。

 期末テストの最中。テスト期間は早く学校が終わる。久々に慎吾が翼の家に来ていた。
 翼が呼んだ。(テスト期間に親友を呼び出す無謀さ等は敢えてここでは触れない)
「改まってどうした?」
「ちょっと色々と整理したくて、付き合ってもらおうかと」
「おう。了解」
 息をつく。そして翼は、自分の中で引っかかっている謎の部分を話し始めた。
「子供の頃、入院してた話はしたよな。あれがどうしても腑に落ちない。当時のことをあまり思い出せないけど、何かがおかしいんだ。俺は本当に交通事故にあったのか?」
 微かな記憶が、とても不自然なように思える。
「父さんのことだってある。これもまた理由が交通事故っぽい。でも何故だ、どちらも詳しい状況を俺は知らない」
 翼の母も知らないのかもしれないが。それにしても翼に情報を伝えてもらえない。
「はぐらかされている気すらする」
 慎吾も考える表情をする。眉尻を下げる。目が糸のようになる。
「次に……あの時。……集団にやられた時」
 今度は慎吾の目が怯えたようにぎゅっと閉じられる。
「正直最初の隙をつかれたとはいえ、俺は振り払えたような気がする。でも何故か……俺の思考は抵抗することを諦める方へ向かった」
 翼は慎吾の腕を強く掴んだ。筋肉質だけど細い腕が、くびれる。
「その上、言われることに従っていた。俺、結構なんでもやっちゃってたよ?」
 慎吾の目を真っ直ぐ刺すように見る。慎吾は泣きそうな目をした。翼も泣きそうな目になった。
「感情を失くして、人形みたいで。嫌悪感も何もない。……今は死にたくなるほどあるけど」
 掴む指に力がこもり、慎吾はびくんと身を跳ねさせる。ごめん、と翼は手を放す。
「それからスイッチが入ったようにぶっ壊れた。逃げようとかやり返そうとかそういう気持ちでなく、ただぶっ飛ばしたんだ」
 自分の気持ちを丁寧になぞるように、翼は言葉を口にした。
「まぁ……あの時のこと、あんまし記憶ないのよ。時々、感触だけ思い出して吐きそうになるけど」
 慎吾が翼の頭を撫でる。何故だか翼はそうすると喜ぶ。
「何で自分があんな風になったかわからないんだ……あの後、あんなことも、するし」
 翼は目を逸らす。慎吾は翼の首元を見つめ、顔を近付ける。
「わぁっ……何?」
「傷跡、綺麗になったな。良かったな」
 慎吾はその今は消えた跡を指で撫でた。
「慎吾……くすぐったい」
 ここで初めて二人は笑った。それからまた、表情を引き締める。
「首謀は中一から俺をストーカーしていた女子だと思う。高校入ってからも一度、校門で待ち伏せされた」
 翼は寒気がしたのか、腕をさする。
「それきりなくなったけど、この件に関して涼とヤスが何か隠している気がする」
 慎吾が目をぱちぱちとさせる。焦点が若干外れる。
 ――お前も絡んでるのか……!!
「俺はみんな信用してるから、悪いこと考えてるんじゃないのはわかるんだけどな」
 慎吾は瞬きを繰り返しながら大きく頷いた。翼の前じゃ嘘はつけない慎吾。
 ――悪いこと考えてないのは本当みたいだけど……。
「終わってない」
 足を胸に引き寄せて腕をその上に組んで乗せ、顔を埋めた。
「俺の悪夢はまだ終わってないんだ……」
 絞り出すような声。慎吾はまた抱き寄せてくれる。
「……なんで俺、抱き締めることしかできないんだろ……」
 慎吾の声もまた、静かに響いて、それから消えた。


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