サディスティックハーフムーン


3、Haruaki

 兄の暴力を全て話した。春依は俺の左手首を握り締めたまま聞いていた。話し終わったら、掴んでいる手を離して立ち上がった。
「兄貴止めに行かなきゃでしょう」
「いや、俺が行くからお前は待ってろよ」
「ハルアはその傷手当てしてから来なさい」
 春依の動きは素早い。ささっと部屋を出て行って、出かける準備を整えて俺の部屋に戻ってきた。
「いや、お前は本当に待ってろ」
「ハルアはすぐに追えないでしょ」
「別にこんな傷どうってことないし」
「手の甲の傷残ってるじゃない。その傷も手当しないと」
 春依は有無を言わさない、脅すような口調で言われた。
「大体兄貴が何処行ったかわかるのかよ」
「発信機つけてるし」
 それも俺が暴力受けてることを調べる手段だったのだろう。
「うわーマジでハルアの言った場所にいるよ」
 春依は小さい機械の画面を覗き込む。
「いってきます」
「いや、だから待てって」
 春依を力ずくで止めようとした。でも俺の意識はまだ回っていた。春依に振り払われてしまった。
「大丈夫だから」
 春依はいつものように、冷たく言い放つ。
「今度は私の番だろ? ずっと我慢しやがって」
「でも行くな」
「ちゃんと休んでろ。ボロボロが」
 何も言い返せない。春依に冷たく鋭い目線を向けられる。
「一人で行くなよ」
「……わーかってるよ」
「兄貴には近付くなよ」
「行ってくる」
 春依の無邪気な。小悪魔のような笑顔が目に焼き付けられる。
 春依は、行ってしまった。

 俺はいつも行く医者の元へ行った。俺は体にある傷のことを黙っているように言っていた。そして暴力を振るわれていることは話さなかった。左手の傷を手当してもらった。
 休んでいけと言われた言葉を無視して、俺も春依を追っていった。
 春依に教えてもらった場所へと向かっていった。春依は、二人組みの片方と出かけていったらしい。俺は一人で電車を使って向かっていた。
 着いた場所は、山あいのところだった。春依に告げられた山へと向かう。
 その頃、春依が乗っていた車がエンストしたらしい。そして車ではそれ以上先に進めなかったらしい。春依は、運転していた二人組みの片方に待っているよう言った。もちろん片方は止めた。しかし、春依は聞かなかった。
「急がないといけない。車に何かあっても困るから残ってろ。つべこべ言わずに残ってろ!」
 春依は一人で山の中へと行ってしまった。
 俺もその頃、山の麓に着いていた。春依しか兄の現在地を把握していなかった。さて、何処から入ればいいんだと俺はうろうろしていた。早く春依を止めに行かないと。止められなくても、春依の側にいなければと焦っていた。
 そして。俺は、桜さんに出会った。救急車を呼んで、病院まで付き添った。駆けつけた桜さんのお兄さん。一番上のお兄さんにお礼を言われた。俺は体力の限界を超えて倒れてしまった。
 病院にあるソファーで寝かせてもらっていた。すると、もの凄い不安が俺の中を襲ったのだ。怖くて怖くて仕方なかった。どうしようもない恐怖に襲われた。そして、春依に呼ばれている気がしていた。
 俺は無理矢理体を起こして走っていった。ともかく春依のところに行かなければいけないと思っていた。何故病院で呼ばれているかなんて考えもしなかった。
 春依を見つけた。ストレッチャーで運ばれていた。春依は血塗れだった。信じられないくらいに傷だらけだった。
「春依! ……春依!?」
 ただただ名前を叫んだ。春依の真っ赤に染まった手を握った。手術室へ運ばれていく直前。春依は俺の手を微かな力で握り返した。
 あれから一年以上。春依は未だ壊れてしまったまま。
 覚ましてくれた目も、表情を出してくれない。  今までみたいな春依には、まだ戻っていない。彼女はまだ病院にいる。

 誰も詳しい状況は知らないらしい。兄も山の中で死んでいるのが発見された。兄の死因など、聞きたくもなくて俺は聞いていなかった。近くに携帯が落ちていたらしい。ピンク色の携帯は、血に汚れていた。繋がらなかった発信履歴があった。あの山は圏外の場所と、そうでない場所があったようだ。ここからは俺の予測。春依は、桜さんを襲う兄を見つけたのだろう。そして俺に連絡しようとした。しかし、すぐに圏外になってしまって繋がらなかった。そんなところを兄に見つかって、襲われてしまった。
 電話はできなくても、メールは頑張ればできる。電話は繋ぎっぱなしじゃないといけないけど、メールは送る時の一瞬だけ電波が来ていればいい。

 俺は桜さんを見つけてから、ずっと携帯の電源を切っていた。ようやく開いた時、そこには春依からメールが来ていた。受信時間は、春依が刺された後だと思われる。

『今までありがとう』

 春依は、自分が死んでしまう恐怖を何処かで感じていたのだ。助けてでも、痛いでも怖いでもなくて、それだけ書いてあった。シンプルなメールは春依らしかった。
 送信に成功した。そしてまだ自分の体力に余力がありそうだ。とでも思ったのだろうか。二通目は、作成途中の状態で見つかった。春依の携帯を開いたら、メール作成画面が出てきたのだ。宛先は俺になっていて、本文にはこう書かれていた。

『お前最高』

 本当はもっとふざけた感じにしたかったのだろう。でも、書いてあったのはそれだけだった。
 二通目は送れなかったのだ。俺は、そのメールを自分に送信し、今でも大事に保存している。

「離れてても、お互いのことはわかるよな」
 春依は以前そんなことを言っていた。いつものように、別宅に来て二人、のんびりしていた。そんな時にふと言った。春依は無駄に黒い笑顔を浮かべていた。
 今でも、時々春依の気配がして仕方がない。

 それから、春依の友達や知り合いに会うことがあった。共通の知り合い以外は、みんな俺を春依と間違えた。
 俺の所為で春依は襲われた。彼女の人生は変わってしまった。本当は俺が代わりになるべきだった。春依が無事でいるべきだった。大事な時間を春依は失くした。
 俺は、家で抜け殻のような生活を送っていた。ほとんど何も喋らなかった。
 俺の母は、寝込んでしまっていた。しばらく会っていなかったのだが、ある時に会いに行った。
「春依? 春依なの?」
「いや、遥亮っすよ?」
「何言ってるの。春依じゃない」
 母は俺を春依だと思い込むようになっていた。矛盾を指摘しようものなら、ヒステリーを起こし、パニックを起こし、収集がつかなくなってしまった。だから、俺は春依のふりをした。母は完全に精神を病んでしまっていた。
 やはり春依はあんな目に遭うべきじゃなかった。俺が代わりになるべきだった。その思いだけが俺の中を占めていた。俺は、母の前以外でも春依と名乗るようになった。
 春依の代わりに生きようと思った。春依として生きようと思った。死んだのは遥亮ということにしようと思った。
 俺は、別宅へと行った。誰にも言わずに出て行った。すぐに気付いていた。俺は春依になれないと。何か一言話す度、何か一つ動作をする度。わかるのだ。春依の側にずっといたから。これは春依じゃない。春依だったらこんな時、こんなことは言わない。
 死んでしまおうとだけ時々考えた。ただ別宅で何もしない生活が続いた。すぐに二人組みに見つかって、餓死も自殺も免れてしまった。学校は春休みに入っていた。
 相変わらず、俺は自分が春依だと言っていた。今まで決めていなかった志望校を決めた。春依が行きたがっていた大学に決めた。春依として生きられなくても、春依の代わりには生きられると思った。それでも、ライブには行けなかった。CDも聞けなかった。俺だけが楽しむのは、春依に悪い気がした。春依になるなら、女の子のふりをしようとも一瞬考えた。しかし、一瞬で無理だと思った。春依の服装をしようと思ったが、春依の服は俺には入らない。そして、左手の手袋はどうしても外したくなかった。傷跡を見たくはなかった。春依の携帯をもらうことにした。俺と同じ機種で色違いの春依の携帯。そしてちょっとした小物を使わせてもらうことにした。俺と同じ度数の春依の眼鏡を使うことにした。薄い赤色のフレームの眼鏡。それくらいしかできなかった。春依にはなれなかった。
脳内で遥亮が死んでいく姿を見た。自分が殺したのだ。自分なんていなければいい。春依にはなれない。でも、遥亮が生きていていい理由もないと思った。
 意味もなく、外を歩くことにした。そして、桜さんに再会した。

「俺は、遥亮でもなくて、春依でもないんです。誰にもなれないんです。着地点なんかとっくに見失ってるんですよ」
 長い話を、桜さんはじっと聞いていてくれていた。
「そんな君が、今の遥亮だろ?」
「そうですけど」
「何も気負わないでいいんだよ。春依ちゃんになろうとしなくてもいい。前の自分に戻ろうとしなくてもいい。前の自分を否定しなくてもいい。君は精一杯春依ちゃんを守ろうとしたんだ」
 桜さんが静かに話す。
「だから、死ぬなよ」
 俺は答えない。
「私が何で生きてきたかわかるか?」
「わかりません」

「君を死なせないためだ」
 俺はここに来て、何度驚いているだろう。

「私が死んだら、君も死ぬ。そう思ったからだ」
 俺が必死に生かそうとしていた桜さん。そんな桜さんに俺が生かされていたなんて。
「私を生きさせてくれてありがとう」
 俺を生きさせてくれてありがとう。桜さんのおかげで、俺は心の傷が少し癒やされた気がしていた。桜さんと、すみれさんと、すずらさんと、向日葵さん。四人が楽しく暮らしている様子を見ていたら、とても癒やされたんだ。
「春依ちゃんもこんな鋭い人なの?」
「えぇ。まぁ、俺なんかよりずっと。俺よりもっと酷いですよ」
「死ぬなよ」
 桜さんがまだじっと俺を見る。あの時のように。初めて会った時のようなとても強い眼差しで。
 俺は答えない。
 すると、桜さんが俺の目の前まで歩み寄ってきて、少し背伸びする。両手で顔をそっと挟まれる。唇を、重ねられた。
「続けますか?」
 桜さんがまた俺を見つめる。睨むような鋭い視線。何となく、春依を思い出した。
「……死にませんよ」
 俺はぼそりと答える。もの凄い動悸に襲われている。頬が熱い。
「君があんなことするから、未だに若干トラウマなんだけどなー」
 桜さんが冗談めかして責めてくる。
「すいませんでした」
 素直に謝ったら、桜さんは笑った。悪戯っ子のような笑顔で。
「あれ、俺のファーストキスだったんですけどね」
 それはもう本当に蚊の鳴くような、いや、泣くような声で言った。桜さんも驚いている。
「ちゃんと戻ってきますから。行かせて下さい」
「君、私のこと好きなのか?」
「……嫌いじゃないですよ」
「それは誰の言葉?」
「俺が言ってますよ」
 桜さんは少し微笑んで黙って頷く。そして去っていった。
 俺は山の中へと入って行った。

 辿り着いた場所は、何事もないように静かだった。そこは、山登りする道を少し外れた場所だった。斜面はとてもなだらかだ。俺はそこに横たわる。

 半月の半分は、見えないだけで存在はしている。隠れているだけなのだ。
 春依も、何処かにいるのでしょうか?
 俺は、許されるのでしょうか?
 俺は、何処に向かうのでしょうか?
 春依のことを忘れた日は一日もなかった。
 いつでも春依のことを考えて行動していた。
 俺は、俺の人生を生きるべきなのでしょうか?
 半月の半分は、光が当たったままでいいのでしょうか?
 いつかは、満月になるでしょうか?
 春依は、今の俺と同じようにこうして横たわっていたのでしょうか?

 兄貴、俺達がこんなことになって幸せですか?
 春依、俺は生きてていいのですか?

 俺は、いつまでもそこに横たわっていた。

Ending

 静かな別宅。向日葵はリビングで勉強していて、涼良は今日もバイトへと出かけた。
 リビングにあるパソコンの電源がついている。文書作成ソフトが起動していて、画面は白い光を放っている。そこに、純玲が誰かに呼ばれたように近寄る。画面には、文字が書いてある。

「やっぱ、お前最高!」

 純玲が呟くようにその文字を棒読みする。そして、純玲は誰もいない場所を見つめ、頷く。
 純玲の視線の先に一瞬、ショートカットの髪型で眼鏡をかけた笑顔の少女の姿が浮かんで消えた。


読んでいただきありがとうございました。
 

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