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エスティーメモランダム

―妄想トラジディー―


 窓際の席、罫線もない真っ白なノートが広げられている。そこにひたすら書き込まれる、絵、文章、絵、文章。真っ白なノートが埋められて行く。傷だらけで折れそうな鉛筆が、休む暇なく動いている。
 その鉛筆を動かすのは、長く黒い髪に顔が隠れた女の子。隠れた顔が現れると、そこには大きな黒い瞳、細い眉、通った高い鼻、白い肌に赤い唇。それらが整った配置で揃っている。もしかしたらクラスで一番の美形。そんな女の子が、ボロボロの鉛筆で、延々何かを書き続けている。
 彼女に話しかける勇者はおらず、彼女はいつも一人でノートに向かっている。
「ね、白野さんは何をしてるの?」
 痺れを切らした私は、友達に尋ねる。新しいクラスになって一週間。触れないでいることの方が不自然に思えてきた。大人しい友達は、言葉を空気にそっと乗せるように話す。
「去年もずっと、あぁだったみたいだよ」
「何してるのかは、誰も知らないの?」
「覗く人とか話しかける人はいるけど、みんな首を傾げるだけ」
 確かその美形、白野さんはちょっとマイナーな場所から通っていて、彼女の中学時代を知る者はいない。私は、何故だか好奇心が高まった。
「話しかけるか」
「え、話しかけるの?」
 私は白野さん――白野弥生に近寄った。ノートには、色々な風景が描かれていた。そのどれもが本に出てきそうな非現実的な世界だった。なるほど。白野さんが美術の時間にこっそり活躍している理由がわかった。これだけ描いてれば絵も上手くなる。
「何描いてるの?」
 白野さんはビクリと筆を止め、硬直する。ノートを閉じて、表紙を開く。それからゆっくりこちらを向く。綺麗な大きい目はどんよりと死んでいるように見えた。ノートの最初のページを、指でつつく。そして予想外なことに喋り始めた。静かで優しい声だった。
「これはね。わしが住んでる世界」
 それから白野さんは、また視線をノートに戻し、先程開いてたページを開き、鉛筆を躍らせる。
「白野さんはそこに住んでるの?」
「そ。最初のページのとこにわしは住んでる」
 白野さんがつついていたページだ。
「じゃあ他のページのは?」
「アリスが旅してる場所」
「え?」
 私の思考は一瞬停止した。
「わしは旅をしているアリスを待っている。お茶会に来るはずだから」
 私はもはや言葉を失っている。白野さんは、私の名前を知っているのだろうか。
「白野さんって、三月ウサギか何か?」
「そう。よくわかったね」
 私が何とか搾り出した言葉を、白野さんはあっさり返した。
「アリスをずっと待ってるの?」
「ずーっと待ってる」
 周囲のクラスメイトが、ちらちらとこちらを見ている。白野さんとこんなに長く会話を続けたのは、私が初めてらしい。
「不思議の国で? 待ってるの?」
「そうそう。わしは不思議の国に住んでる。アリスを待ってる」
 そこでタイムアウトだった。チャイムが鳴ってしまった。
 授業中、白野さんの方を覗いてみた。先程までかじりついていたノートはしまわれていて、授業のノートが出されていた。あのボロ鉛筆で普通にノートを取っていた。

 授業が全部終わり、放課後が始まった。白い兎のぬいぐるみがついたスクールバッグに、白野さんはごそごそノートを入れていた。部活にも入っていないようだから、そのまま帰るのだろう。
 そんな白野さんに、近くの席の子が話しかけていた。先程の会話を聞いて、話せる可能性を見出したようだ。
「白野さん、ノートの中に住んでるの? ここの世界には遊びに来てるの?」
 白野さんの世界を壊さないで尋ねる辺り、とても親切だ。このクラスの人達はそんな感じで、優しい。でも、当の白野さんは体をぴくりと震わせたまま、俯いていた。やはり喋らないかと周囲の誰もが考えた瞬間、白野さんは何とか声を出しているように呟いた。
「こ、こんな世界、ありません。わしは不思議の国に住んでる。こんな世界はないんだ……ないんだ……」
 誰に言うでもなく白野さんは呟いて、スクールバッグを両手でつかんで教室を出て行った。
 近くにいる人は皆唖然として、立ち去る白野さんの背中を見ていた。誰かがぽつりと呟いた。
「それって何、あれは現実逃避なの?」

 私は、何故だか白野さんの後を追っていた。筆箱からシャーペンを一本取り出して、追っていた。廊下ですぐに追いつき、肩を叩いて呼び止めた。やはり白野さんはビクリと肩を震わせた。
「シャーペン、あげる。鉛筆だけじゃ不便でしょ?」
 下をじっと見ていた白野さんが顔を上げた。私はシャーペンを手に触れさせて、握らせた。
「白野さん、現実は嫌いなの? だから、不思議の国にいるの?」
 白野さんは、困ったような、怯えたような目でゆっくりこちらを見た。私としか会話ができないのなら、私が白野さんをこっちの世界に戻さなきゃ。

「こっちおいでよ。みんな待ってるから」
 私は思いっきり笑顔になってみた。もう、ウェルカム! という気持ちになったら、笑顔になれたのだ。白野さんは、ぎこちなく言葉を発した。
「わ、わわ、私はいないの。いない方がいいから、いいの」
 白野さんは、喋りながら泣きそうに見えた。初めてそんなことを話したようだ。私に背を向けて、白野さんは走り去ってしまった。
 教室に戻ったら、友達がこちらにやってきた。
「よくあそこまで白野さんと会話が続いたね」
「何とか続いたよ」
 そして友達は、私に耳打ちするように囁いた。
「白野さんの鉛筆さ。アレ、白野さんが怒ったり傷付いたりしたら、ハサミとかで鉛筆を傷付けるらしいよ」
「え?」
「入学した時には、もう何本も鉛筆がボロボロだったみたいだよ」
 友達と私は、しばし見つめあった。私は、ふと気付いた。
「白野さんにとって、現実は苦しいから捨てたいものってこと?」
「うん……話しかけた時に、白野さんが言う謎の言葉からすると」
 白野さんは私と話す時以外、先程のように「こんな世界はない」等と言うそうだ。
「捨てたくなるようなことばかりだったのかな……不思議の国に逃げたくなるような」
 友達も私も、それ以上言葉が出てこなかった。

 部活の時も、帰ってからも、気がつくと白野さんのことを考えていた。廊下で話した時、白野さんは初めて私、と言った。泣きそうだったのも、初めてだ。白野さんが感情を出しているところを初めて見たのだ。白野さんは私を待っていたようだ。ちょっとだけ、扉を開いた。私は白野さんが閉じ込めた現実を少し垣間見たのだ。

 翌日。学校に着くと、既に白野さんが来ていた。いつものようにノートを広げ、不思議の国を描いて広げている。
 いつもと違うのは、ボロボロの鉛筆ではなく、シャーペンを使っているところだ。受け取ってもらえたのだ。白野さんは私が来たことに気付くと、ノートから顔を上げてこちらを向いた。音も立てずに椅子から立って、私の方へやってきた。私は嬉しくて元気な声をあげた。
「おはよ!」
「おっ、おはよ」
 白野さんは消え入りそうな声で返してくれた。そして、必死に話し始めた。
「あの、シャーペン。ありがとうございますっ……」
 少し震えながら話す白野さん。私も声をかける。
「緊張しなくていいんだよ? 怒ったりしないし」
 白野さんは、大事そうに両手で握っていたシャーペンを胸にぎゅっと押し付けた。
「私っ、私は……本当は消えた方がいいんです。優しくっ、されちゃいけないんです。ごめんなさいっ」
 俯いて一生懸命言葉を発している。ずっとずっと心に溜めていたのだろう。
「何でそんなこと言うの? 消えた方がいい訳ないでしょ?」
 白野さんは苦しそうに呼吸をしていた。そして私の言葉に顔を上げた。目が潤んでいる。
「いっぱい、何度も消えろって言われましたっ……他にも、色々……」
 言われた時のことを思い出したのか、白野さんは苦しそうにその場でへたりこんだ。
「だから、だから消えた方がいいんです……」
 泣きそうな白野さんと、戸惑う私の元に、友達も側に来た。私と友達はへたりこむ白野さんと同じ目線にしゃがんだ。
「もうさ、ここにはそんな奴いないって。ここは不思議の国じゃないけどさ、白野さんが安心していていい場所なんだよ」
 白野さんは大きな目を、更に大きくした。唇をぎゅっと結んで、それから溢れ出すように泣き始めた。涙は止まらず、次々と流れていた。登校してきたクラスメイト達も、白野さんを心配していた。
 私と友達は、白野さんを保健室に連れて行った。落ち着くまで休んでもらうことにした。
 教室に戻って、白野さんの席を見た。机の上には、ノート。そして脇に置かれたカバンが開いていた。そこからは、本が覗いていた。私はそれを、ちょっと見せてもらうことにした。
 本は、不思議の国のアリスをモチーフにした物語だった。そこでは、登場人物がみんなで楽しそうに過ごしていた。
 白野さんはここに逃げ込んでいたのだ。そして、閉じ込められていた。そこから外に出ようとしても、それを許してくれる人は誰もいなかったのだ。


 朝のホームルームが始まり、私は心配がたくさん詰まった頭のままでいた。二時間目が終わった辺りで、白野さんが戻ってきた。
 休み時間、何人かクラスメイトが白野さんに声をかけた。みんな心配していたのだ。白野さんは、ぼそりぼそり大丈夫、と呟いていた。私と友達も、白野さんの元へ行く。
「心配、ごめんなさい。もう大丈夫です」
 初めて白野さんの方から喋ってくれた。未だにシャーペンを握り締めていている。
「あの、あの……私、霜月さんと友達になれたらいいな、とずっと思ってました」
 白野さんは、シャーペンをお守りのように握り締めながら、必死に言葉を探して話す。
「霜月さんに話しかけられて。初めて私は生きてていいんだ、って思いました。同じクラスになってから、ずっと霜月さんと友達になりたいなと思ってたんです。駄目、ですよね……」
「駄目な訳ないじゃん!」
 私は、即座に言葉を返していた。白野さんは目を丸くしていた。
「友達になろうじゃん。不思議の国の外で、楽しいことたくさん探そうよ」
 たくさん泣いた白野さんは、心に溜まった辛い気持ちを流せていた。そんな白野さんは、初めて笑顔になった。
「ありがとうございます……!」
 側にいた友達も、言葉をかけた。
「できたら、私も入れてね。卯月白香っていうの。それくらい知ってるか」
「はい。卯月さん、覚えてますよ」
 白野さんが、心を開いていってくれた。
 それから私達は、不思議の国から外の世界へ旅に出た。

「白野さん、弥生って呼んでいい?」
「はい! 嬉しいです」
「敬語で喋らなくていいよー。私のことも、名前で呼んでほしいな」
「アリス?」
「そう。うす、と書いて有珠。アリスって呼んでね」

 ノートの一ページにはシャーペンで、私と友達の白香。そして弥生が描かれていた。

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