Opening

 暗い、色の見分けさえつかない世界で俺はうずくまっていた。
 明かりのない夜はきっと、こんな感じなのだろう。
 今が真夜中なのか夜明け前なのかわからない。時計もない中で朝をひたすら待っている。
 要はこの暗い世界からいつになれば抜け出せるのかわからないまま待っている。

 消えていく、文章と感情の境界線。物語は始まる。

 一人きりの帰路はどうしようもなく怖い。恐怖と嫌悪感。
 凄い重く、暗澹とした気持ちが全身にのしかかる。今日も、過去に現実にがんじがらめにされた体を必死に動かして家路につく。
 一人になった途端に「親友と会話」という現実逃避ができなくなり、要は現実と強制的に向き合う羽目になり、憂鬱になる。
 空の暗さも増してきて、夜が肩の重さを増やすかのように迫ってくる。出口も逃げ場も見えなかった。
 誰にともつかずに問いかける。
「何で、俺がこんな目に?」
 空気を振るわせた声の暗さに自分で驚く。落ちていく。何処に? 底なしの深みに引きずり込まれていく。
 家に着いたら、郵便受けに黄緑色の封筒が入っていた。それを見て体にのしかかる重さが更に増した。

 音のない部屋。埋められるだけ本棚で埋まっている壁際、入りきらなかった本は積まれている。今は本達も沈黙している。音のない部屋。
 やがてシュレッダーの音が響く。写真だ。綺麗な顔の少年が写っている。学校の机に入れられていた。日常茶飯事だ。
 写真がシュレッダーに巻き込まれ、細かく姿を変えていく。
 音が止まる。
 また無音が広がる。
 何故か部屋の電気は消されて、机のスタンドライトのみが照らされている。浮かび上がる、少年の横顔。写真の少年だ。
 アイドル級の整った顔。精悍な雰囲気、賢そうな顔立ち。大きな二重の目、スラっと高い身長。
 そして手に握られた黄緑色の封筒。
 いつのまにか流れ始めたノクターン。しかも多分短調の。何連符だかはわからないが、少しの時間に一気に流れてくる。
 深呼吸を一つ。少年は黄緑色の封筒を開けた。
「合格圏」の文字をじっと見る。
「あぁぁぁぁ……」
 嬉しいのだか、悲しいのだかわからない声がノクターンの旋律の間を駆け巡る。無表情な少年の声。
 瞬間明かりがパッとつく。
「翼〜、見せて見せてぇ!」
 と愉快な性格を見ただけで漂わせる女性=翼の母らしきその生物は、両手をブンブンと振り、差し出す。
 翼は、複雑な表情でその封筒を渡す。
 中身は、模試の結果。
「あらぁ。合格圏行ったじゃない」
「まぁ」
「ギリギリだけど」
「……まぁ」
「ギリギリだけど」
「そんなこと俺が一番わかってるさぁぁ!」
 何故か最後を震わせ、フェードアウトしながら翼は叫んだ。
 翼、受験前最後の模試結果、『微妙』。あくまでも翼にとってであるが。
「お兄ちゃんどうしたの?」
 弟の翔が部屋からひょっこり顔を出す。丸くて大きな目、大人びた翼に対して、まだ幼さ全開の雰囲気である。
「翔……俺は、本を断たねばならぬかもしれない」
「え、まさか……アレをまたやろうっていうの!?」
「そう……本断ち」
「駄目だよお兄ちゃん! 前それやってどうなったか忘れたの!?」
 必死さのあまり、翔の目がゆらり光った。
「お兄ちゃん、『本って、美味しそうだよね』って言い始めたんだよ? 困った俺は慎吾くんに電話した。そしたら慎吾君は言ったよ『同意するなよ……したら翼絶対食べるだろ!!』って」
「読めないのなら、食せばいいと思ったんだ……」
「駄目だよ! 本断ちしたら、またお兄ちゃん本を食べようとしちゃう! それに、本断ちしているお兄ちゃんの目は、怖いくらいに死んでるんだ!」
 泣き出しそうに説得を続ける翔に、翼は折れた。
「うん……読書の時間は減らすけど、もう本断ちという無茶はしない」
 その言葉に翔は笑顔になった。
「隼翔さんも昔やってたわねぇ〜」
 一部始終を聞いていた母は言った。そして翼の部屋から去って行った。
 翼は送られた写真に身を震わせもした。だが次の瞬間には、無意識に抹殺されていた。

 全てはとっくの昔から始まっていた。今、再始動しただけなのだ。

 翌日の学校。みんな例のブツが家に届いたらしく、チラホラ話が聞こえてくる。
 例のブツの内容は下手したら、彼らの人生を左右する。あぁ、恐ろしい。
 もちろん、話は翼にもふられる。
「翼どうだったぁ?」
「……微妙」目を逸らす翼。
「あの高校で微妙なんだから凄いんジャン?」
「そうかぁ? お前はどうなんだよ」
「俺? 微妙だよ」
「お前だって微妙ジャン」
「俺の志望校はトップレベルのバカ高だっ!」
 驚くべき事実を彼は笑顔で言い切った。
「…………」
「お前の志望校は、県下三番目くらいの共学高だ!」
「男子校含めたらもっと下になる事バレる様に言うな!」
「いいジャン。共学高では、県下三番といわれるんだから」
「そうかなぁ? でも俺受かる気あまりしないけど」
「ふぅん。風邪高って倍率どんくらいだっけ?」
「風高だ! 1.72だよ」
「高っ! 1を超えてる高っっ!」
「いや、普通は1を超えるんだが」
「じゃ、2に近い高っ!」
 スポ根バンザイ蒼井 慎吾。翼とは親友の関係だろうか?
 にこにこ笑う慎吾に、翼も口元が緩む。
「あ、翼まさかまた本断ちとか言わないよな?」
「何でみんなそこを心配するんだよ……昨日翔にも言われた」
「お前から本を奪ってしまうのは、命を奪うようなものだ」
「何だよそれ。俺は勉強も好きだよ。嫌いになったことがない」
「さてそれは何でだ?」
「作家には幅広い知識が必要じゃん。勉強したことは何一つ無駄になることはないの。俺にとって」
「ほら作家。本からは離れられない!」
「言わせたんだろうが」
「言わなくても思ってるだろうが」
「そうなんだけどさ!」
 自分を理解しているという安心感に翼は浸る。大きな目は静かに輝き、安らかだ。
 翼の平和な時間に、クラス中に聞こえる会話が響いてきた。
「えぇ? 私? 要検討≠セよっ合格確率ほぼないよぉっ」
 要検討とは、一番合格から遠い位置にある。
「なのに第一志望!?」
「ウン!」
「……何で?」
「受かったらねぇ、動物園に行ける!」
「中三にもなって動物園かよ!?」
「ウン! キリンさんと戦いたい! でもゾウさんともっと戦いたい!」
「何かが完全に間違っている気がするのですが……」
「まだあるの!」
「何?」
「風矢君と同じ高校になるの!」
「…………」
「あははぁ〜」
 嫌でも翼の耳に入ってくる。
 そして、放っといてあげるという考えを持ってくれない友人に話を振られる。
「だってよ? 風矢クン」
「知らねぇよ!」
「風矢クン、カッコいいから」
「カッコよくねぇよ!」
 涙声で叫ぶ、風矢(かざや) 翼。
 そんな声は全く耳に入らないらしい、恋するクラスメイト、空野(そらの) 雫(しずく)。
 周囲の友人達から、抜かりないツッコミを入れられている。
 周囲の友人達は、雫に引かなくなってしまったらしい。嫌な免疫。かくして彼女達は、何を得たのだろうか。
「風矢君、頭抱えてるよ?」
「そんな風矢君も素敵っ」
「……だろうと思いました」
「あぁ、食べたいぃっ」
「また言うか!」
「だって、おいしそう……」
 雫の声は、まだ翼たちの元まで届いてくる。
「だってよ? 風矢クン」
「またって何だまたって!」
「ご愁傷様だ風矢クン」
「せめていつも通りに呼んでくれよ!」
「頑張れ翼っ!」
「俺まだ十五歳なのに……」
「もうすぐ十六だろ!」
 翼、十五にして人生の危機を感じる。でもこんなの、まだプロローグ。

 微笑ましき朝の教室。微笑ましき朝の三年一組。
 入試直前朝の教室。入試直前三年一組。
 翼までもが、慎吾までもが、仲良く勉強。
「翼。これどうやるの?」
「あぁ、単純に因数分解」
「因数分解って何?」
「…………」
 無言で、教科書を差し出す。開かれたページは因数分解。
「へぇ、コレが因数分解か。確かに見覚えはあるなぁ」
「…………」
 勉強のレベルはともかく翼と慎吾までもが仲良く勉強。
 そんな二人の元に聞きたくなくてもその会話は聞こえてくる。
「昨日ね、久々に三時に寝たの」
「えっ。雫が珍しく勉強!?」
「絵描いてたの〜」
「アンタが一番危機感持っているはずなのですが?」
「アハハぁ〜で、コレは強制的に配る」
 そういって押し付けるか如しに紙を渡す。
 紙には『合格祈願!!!』と大きな文字で書かれていて、ツインテールの少女が中央でニヤけている。
 ニヤけて、いる。雫そっくり。というかこれは雫だろう。
「……アリガト?」自然と口調が疑問系になる。
「いえいえ〜ファイトだぁ!」そんな疑問も雫には届かない。
「お前がな」
 数人の突っ込みが、見事にハモった。
 そんな妙な会話をしながら、いつも一緒にいる友達たちに合格祈願の紙を配りまくっている。
 雫はよく自分で描いたイラストを配る。実力者なため、よく頼まれもする。
 自分で作ったイラストの、マスコットストラップをお守りとして持っているらしい。はっきりしたことは、雫の友達しか知らない。
「いいなぁ気楽で」
 とか慎吾と話す翼の元に、猛然とダッシュ、突進、突っ込んでくる生物が。
 ツインテール振り乱した、チッコイ影。紙を渡す、というより押し付ける。
「ハイ! アハハぁ〜」
「……サンキュ……」
「翼よかったなぁ!」
「…………」
 どれが誰の発言だかはわかるであろう……。
「それにしても上手ぇよなぁ」
「しっかりカラーだし」
「絵『だけ』は上手ぇよなぁ」
「それ言うなよ〜」
 アハハ〜アハハ〜グフフ〜グフフ〜とか言いながら奴が去っていった後、二人に何か重たい空気が圧し掛かった。
「俺も文章だけは得意だけど」
「翼は勉強も得意だし、音楽だって得意だろー」
「そんなことない」
「てか翼ってさ」
 慎吾が雫の方を見たまま、翼に語りかける。
「何でそんなに本にのめりこんでるの?」
「そりゃあ、大好きだからだろ」
「必死にも見える」
 いきなり、慎吾が声のトーンを落とした。翼は言葉を詰まらす。
「そして俺にたくさん隠し事をしている」
「してないよ」
「じゃあさ、どうして本の中と現実の区別がつかなくなったり、俺にあんなことしたりしたのか聞いたら駄目なの?」
「駄目なの」
「何でだよ」
 反論しようと翼は唇をもごもごさせるが、珍しく言葉が出てこない。それに、反論したら「隠し事」は増えることになる。
 慎吾の親指が、翼の首筋をなぞった。
「ただ、俺は……」
「何だよ」
「俺は頭おかしいからな」
 翼は口元だけで微笑んだ。
「またそんなこと言う」
 慎吾は眉尻を下げた。



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