「泣いてるのはそっちでしょう……」
脳裏に浮かぶのは涙で頬がずぶ濡れになった兄だった。
何で泣いてるんだとか、兄に怒鳴られて返した言葉がコレだった。
自分自身の涙の理由が痛みから来る生理的なものなのか、精神的なものなのかはわからない。
黒の眼鏡を外し、袖で乱暴に涙を拭う。
兄の方は目から止め処なく涙が溢れている。
整った顔がいつもよりは崩れて見える。大型犬のような兄が子供みたいに泣いている。
今までは真面目だった。
父の後を継ぐのが夢で、大学を卒業してからこれまではその為の勉強をしていたのだ。
弟、妹である双子とは違ってコンタクトだった。
因みに双子は眼鏡だ。弟が黒で、妹が赤のフレームだ。二人の度数は不思議なことに同じ。
兄は茶髪を少しだけ伸ばしていて、一見真面目で育ちが良いだなんてわからないだろう。
いつだってその髪を綺麗に整えている。それでいて無造作に遊ばせている。
優秀な頭脳に端正な顔立ち、真面目で優しい性格。兄は両親にとっても双子にとっても自慢だった。
その兄が、あっけなくこの先の人生がないと言われ、静かに豹変した。
重病人になった兄は裏で崩れ落ちた。
とても大事に可愛がっていた弟に陰で暴力を振るうようになった。
兄も弟もそのことは誰にも話していなかった。
非力であるし健康体でなく、一応遠慮がある兄だが、頻度の所為で弟の体は傷だらけだった。
黒い服の袖をめくったら、痣だけでなく浅い切り傷まで現れる。
新旧様々な傷が頻度を物語り、血が滲む程度の浅さが手加減を示している。
兄は頭脳明晰だが、弟もまた頭の回転が速い。
外見はあまり似ていないけれど、そこは一緒だった。顔立ちも綺麗という点では一緒だった。
余裕がまるでない兄から自分の身を守ることくらいできる。できるのに、しない。
妹の名を出されて脅されているという理由も大きいが、他にも理由はあった。
はっきりとしていて、真っ直ぐで綺麗に整った眉がしかめられている。
鋭くて、それでいて十分な大きさの目は赤く充血し、涙を流し続けている。
顔立ちにも全体的に見た感じにも、とても色気があるのに、その姿はひたすら泣きながら弟を痛めつけている。
締まっていて少し大きな体は、華奢で少し背が低めの弟と並べると恐怖の対象へとなりえそうに変わっていた。
生まれてこの方見たことのない兄の姿。
病気を知らされてからも、表向きは今までと変わらず周りに接していた。両親の心配を跳ね除けるように優しかった。
それがいきなり切り替わってこの様だ。
兄が塞き止められた感情を出せて、流せ、ぶつけられるのはこの時だけ。
不安や恐怖、絶望がないはずないのだ。兄はまだ二十代なのだ。
変わり果てた様子を見せつけられ、弟はそれをまさしく痛々しいほどわかっていた。
何とか自分一人で兄の感情を受け止めようとしていた。
段々と手加減も緩んできていた。弟も溜まったダメージに限界を感じ始めていた。
弟は誰にも話すつもりはなかった。最後の最後まで妹を守るつもりだった。
終わりは見えてきていた。しかし全ては未だに終わっていない。
「他人が誰も理解できない立ち位置に自分一人が立ってしまった時、人はどうしたらいいのだろう?」
呟くのは、黒い服を着た人物だ。
顔立ちが中性的なのか、少年と言われれば少年に見えるし、少女と言われれば少女に見えた。
初夏で少しずつ暑くなってきたにも関わらず、その人は薄手の長袖だった。
黒い袖の下には、やはり黒いアームウォーマーをしていた。手まで覆っていて、指先だけは出していた。
組まれた足。これも黒いジーパンをはいていた。
薄い赤色の眼鏡をかけていて、眼鏡の奥の目は切れ長だ。現在は深く考え事をしているような感じで、より目つきが悪くなっている。
細く整った眉が綺麗に吊り上がった曲線を描いている。顔は細身、体も華奢。服と同様髪も黒い。
通りかかる人が、時折すれ違った際に一瞬振り返る。何となく顔立ちが綺麗なのだ。
目立つことはないのだが、僅かには目を引いたりする。
考える黒装束に、向かいに座る青年が話しかける。
「ハルどうしたん?」
ハルと呼ばれた黒い服の人物が顔を上げる。
その呼び名に至るまでには色々とあった。本人が様々に名乗るのだ、二人分生きていると言って。今の呼び名にも理由がある。
「俺が抱える悩みは、共有できる人がいないってこと。なかなか体験してる人がいない気がする」
ハルの声は、ロートーンな女の子の声のようだった。放っている雰囲気は、ボーイッシュな女の子のよう。
青年の方は、これまた美形だ。二枚目だ。アイドルにいてもおかしくない。
パッチリとした大きな目が印象的。精悍な眉、下唇が少し厚くて何だか兎のようだ。
少し背が高く、痩身。長身痩躯だ。
大人っぽさや、何か人生を悟ったかのような貫禄を身にまとっている。
雰囲気の静かさが波の立たない穏やかな水面を思わせた。
ハルより目を引くのだが、それを嫌がる本人は敢えて存在感を消そうとしている。
彼もハルアの言葉に返す。
「ハルの悩みそのものはわからないけど、独りぼっちはわかる気がする」
ハルが何故その感覚を抱えているのかはわからないが、普通の人が送る日常から外れる気持ちならわかるということだ。
ハルもニヤリと笑う。
「翼ならある気がする。色々ありそう」
その二枚目、翼は大きな目をぱちぱち瞬きさせて、不思議そうな表情を浮かべる。
「何かみんなそう言うんだよねー」
実は翼にも深い過去があったりするのだが、本人にその自覚はあまりない。
あんだけ辛い目にあってかなり悩んだはずなのに、本人にその自覚はあまりない。
不思議そうな翼に、ハルは呟く。
「普通の人と違う方向に、悪い方向に人生捻じ曲げられたら。どうしたらいいんだろ」
一緒になって考える翼。ため息をつくハル。
そんな二人の下に、もう一人青年がやってきた。
彼もまた背が少し高い。はっきりした眉に、翼程ではないが大きな目。少し大きめの通った鼻。
和やかで大らかな感じが全身から漂っていて、見ただけで安心できる。
ひょろりとぶらさげた腕の先には、綺麗な手があった。
「ごめん、お待たせ」
「おぅ、ゆーちゃん。珍しいね、遅れるとか」
翼が言う。ゆーちゃんと呼ばれた彼は肩をすくめる。
「何かさ、変な女の子に会ってさ」
「いつもゆーちゃんが言ってる宇宙人少女じゃなくて?」
ハルもその冷たい目を無邪気に光らせて、ゆーちゃんこと祐斗の話に耳を傾ける。
友達の前では多少楽しそうな表情になる。
「違う子だよ。あの宇宙人な子よりおかしかった。何かこっち見てきた。頑張って逃げたんだよー」
ゆったりとした話し方から祐斗の温厚さがとても伝わってくる。
祐斗も席に着き、アイスティーを頼んだ。
大学の近くにある、カフェのテラス。曇り空の上から淡い光が差し込んでいる。
白いテーブルにつき、三人は椅子に座っている。ハルと翼の前にもアイスティーとカフェラテが置かれている。
三人は話し始めた。他愛もない話だ。
するとそこに、小さな影が突っ込んできた。
「翼くーん! ぐっふふー!」
小さな影は猛獣ではなく、少女であった。長い髪をおろし、走ってきた所為か振り乱している。
放っている異様な雰囲気とは裏腹に、顔立ちは可愛らしかった。
細く整えた眉に大きな瞳。愛嬌のある笑顔、というよりは怪しげな微笑み。
愛らしいマスコットのようなルックスに、見ている者が何か違和感を覚える奇妙なオーラ。
猛獣ではないようだが、珍獣には見える。
珍獣が声を向けた先はもちろん翼だが、先に祐斗が反応した。次に珍獣が反応した。
「さっきの変人!」
「さっきの可愛い子!」
驚く祐斗と珍獣。ハルアは怪訝な顔をし、翼はため息をついた。
珍獣は三人の周りを飛び跳ね始める。スキップするように周りを跳ねている。
「ぐっふふーぐっふふー翼君のお友達だったんだね、ぐっふふー」
言いながら周りで跳ねる。
「雫、お前何しに来たんだ」
顔いっぱいに呆れた表情を浮かべて翼は言った。
「待ち合わせよりちょっと早く着いちゃって暇だから、待ちきれず翼君に会いに来た! ぐふふ」
翼の呆れた表情が危険物を見るようなものに変わる。
「待ち合わせまでまだ二時間あるじゃんかよ! それで暇とか言われたって……!」
「翼君に早く会いたかったのーぐふふふふふ」
翼が思いっきり肩を落として脱力する。そして友達二人に向き直る。
「すいません……アレが例の雫って奴です」
「コレか……」
「本当にいたんだ……」
翼は頭を下げ、ハルと祐斗は目を丸くして珍獣、雫を眺める。
雫は何も問題などないように席に着く。ごく自然の流れであるように椅子を動かし、祐斗の隣に座る。
「可愛い」
座って、祐斗を見つめる。顔を近付けて見つめる。
祐斗の方は困っている。きょろきょろと二人の友達を見つめ、わかりやすく困っている。
「助けてぇ。この子は、雫ちゃんは、翼が好きなんじゃないの?」
助けを求める祐斗に、力が抜けきっている翼が答える。
「一番は俺らしいけど、その俺がくっつかせてくれないから、他で補給するんだそうだ」
「なるほど」
何故か納得するハルと祐斗。
翼は誰から見ても明らかな程に女性恐怖症だ。女の人が近付いてくるだけでとても怯える。
翼は複雑怪奇、難攻不落。
やはり翼にも深い過去があったりするのだが、本人にその自覚はあまりない。
そしてあんだけ辛い目にあってかなり悩んだはずなのに、本人にその自覚はあまりない。
「でも、翼は雫ちゃんなら一緒にいれるんだよね」
「この奇人変人というか人ですらなさげな、生き物だからな」
祐斗が目を細めて笑い、ハルは冷静に言い放つ。
翼は雫の方を向く。
「な。これから一緒に出かけるんだし、充電、俺でいいだろ。だから祐斗から離れような」
「俺で、いい、だろ! うっはぁ! ぐっはぁ!」
翼が雫に語りかけ、雫が翼の言葉に暴れだす。
腕を色んな方向に振りつつ、手を激しく動かす。そしてまた三人の周りで踊り始める。
ため息をついた翼より早く、ハルが低く言う。
「ピョンピョン跳ねるなこのゴムマリが」
「何か、萌ーえたー! うっはぁ!」
雫がハルの方に跳ねて行く。
ハルが反射的に雫を全身で追い払う。
めげないでまたハルに飛びつこうと跳ねる雫に翼は言う。
「頼むから大人しくしててくれ。してくれないなら、しばらく雫と喋んない」
「何ぃ!? ぐぎょー!?」
ぴたりと雫が動きを止める。ハルは自分の体を抱き締めるように震えながら、雫を動揺した目で睨む。
翼はぷいと目を逸らしている。祐斗は怯えて泣きそうな顔をしている。
雫は奇声の後に言葉を続ける。
「大人しくします! 今から待ち合わせ場所で待ってます!」
「二時間?」
「待ちます! ぐふふふふー」
「じゃあ待っててくれ」
「了解!」
雫はまた何処かへ突進するかのように去って行った。
泣きそうな祐斗が弱々しい声を出す。
「二時間も待たせてて平気なの?」
「まぁ、アイツは人間じゃないから平気だろ。そもそも二時間前に来るようなヤツだからな」
翼はあっさりと言う。
ハルは翼と同じようにため息をつく。
「あの珍獣といて、翼は幸せ?」
翼はニヤリと笑顔を浮かべる。口角を少し持ち上げ、悪戯っぽい目をする。
「多分俺は、人よりずっと幸せだ。あんな珍獣飼えて」
「……飼ってるの?」
首を傾ける祐斗と、納得したように黒い笑顔を浮かべるハル。
翼はハルに向かって笑う。口を横に広げて、またニヤリ。
「不利な状況になったなら、そこから逆襲してやればいい。沈められた以上に浮き上がって、上から見下ろすんだ。自分は幸せだ、ってね」
親指を突き出し、言葉と共にハルに向ける。
「ハルならやってのけると思う。実力あるから、色々と。這い上がって幸せになってやればいいんだ」
ハルも挑発するような悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「ハルはハルアになります。やってのけてやるさ」
そしてかけていた赤い眼鏡を外す。
目を伏せて、そのまま顔を腕の中に埋めて、ぼそりと呟く。
「別に守ってくれなくても良かったのに……ねぇ、お兄ちゃん?」
ハルの甘えた感じの声に、祐斗が目を丸くしていた。
「何処にも行かないでよ。俺はこれからやってのけるんだから」
顔を上げたハルはいつのまに出したのか、黒い眼鏡をかける。
微笑む翼、きょとんとする祐斗。
雲は流れて、透き通るような青い空が広がる。
新しい夏を告げるように。
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未読既読に関わらずわかるような話にしようと思ったら、どっちにもわからない話になりました。
未読者の方へ。虹色ウォーカーとサディスティックハーフムーンをどうぞ。
既読者の方へ。1000Hit記念ということで教えちゃいます。本編最後にヒント有。これはあの後のお話です。
兎にも角にも。
1000Hit、ありがとうございます!!
By 空と粉雪ワンダーランド Kyo&ミー♪
http://skypowdersnow.aikotoba.jp/
2008.7.7
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読んでいただきありがとうございました。
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