5.昼休みの紙飛行機

 ハル君がお茶買ってくると言うので、僕も後から追ったんだ。ハル君は自販機の前にいて、こちらに背を向けている。しゃがんでペットボトルを取り出す。それから立ち上がって、ペットボトルを左腕で抱えた。蓋を開けようとしている。左腕でペットボトルを支えるのは安定しないらしく、若干苦戦しているようだった。
 不意にハル君は動きを止めた。立ち眩みがしたらしく、体がぐらりと揺れた。ペットボトルがごとりと落ちる。その瞬間、背後にいた僕にも気付いたらしい。一瞬世界が終わったかのような表情をした。そそくさとペットボトルを拾い、こちらを怖い目つきで一瞥して、戻っていった。
 知ってたよ、とは言えなかった。開けてあげるよ、なんて絶対言えなかった。
 基本的に怪力なハル君だけど、左手だけは別らしい。極端に握力が弱い。本人からはそのことを話さない。ただ僕がそれに気付いた時、ハル君がいつもしている指出し手袋とすぐ結びついた。その手袋を外さないし、その理由も話さないし、左手のことも話さない。
 最近これでもやっと色々話してくれた。双子の兄妹である相方さんのこと。僕達と出会うまで一人きりでいた理由。ほとんど本名を名乗らない理由。逆に言えば、そこまでしか話してくれなかった。でも僕達はそれで十分だった。
 これがまだ一年生の夏までの話。


 ライブ終了! 校内ライブ、僕達チョコレートクランチの出番が終わった。観客も盛り上がってくれたし、楽しかった!
 汗だくの僕達はいそいそと着替え始めた。Tシャツを着替えるだけなのだけれど。先に着替え終わった僕と翼は何となく、離れた場所にいるハル君の方を見た。ハル君はバンドTシャツの下に、長袖のシャツも着ていて、それを脱いだところだった。ハル君の背中が、皮膚が、目に飛び込む。
 細い背中、そこは一面傷跡だらけだった。わかっていたはずのことなのに、実際目にするとやはりショックは大きかった。様々な傷跡に覆われていて、左側、腰のあたりにある酷い火傷跡が目に焼き付いた。
 次の瞬間にはもうハル君は服を着ていた。気付かれる前に慌てて目を逸らす。
 ハル君には双子の兄妹の上に、お兄さんもいたそうだ。ある時からDVに走るようになったお兄さんの所為で、ハル君とその相方さんはここまで傷だらけになった。相方さんは未だ病院だ。お兄さんは亡くなった。
「相方がああなったのは、俺の所為」
 ハル君はそう言う。負い目を感じたハル君は、自分を捨てた。相方さんの代わりでありたくて、でもそうなれないことをハル君自身が一番感じていた。兄でも妹でもない。更に言えば男でも女でもない。遥亮(はるあき)でも春依(はるい)でもない。自分でいることも、相方さんになることも許せなくなった。ハル君は、そんな人間としてどうにかこうにか生きていた。
 僕も翼も、実際ハル君が兄と妹どちらなのか知っている。ハル君には知っていると言わない。ハル君も僕らが知っていることに気付いているけど、そのことには触れない。
 そんな暗黙の了解で成り立っている関係だった。
 僕らの勧誘でチョコレートクランチ、通称チョコクラに加入はしてくれたけれど、楽しそうではなかった。正確に言えば、楽しむことを自分に許そうとはしていなかった。本当は歌うことが大好きなのに。
「ハルーお客様だぞ。ファンだぞ、ファン」
 先輩の楽しそうな声が外から聞こえる。失礼ながら、珍しい。普段チョコクラのファンは舞台裏まで来ない。翼ファンにはそれなりによくあることだけど、ハル君は珍しい。勿論ハル君ファンもいるのだけど、翼のアイドル的な人気と違ってその歌唱力に惚れた音楽好きが多いため、ここまで来るのは珍しい。ハル君も不思議そうにしながら、扉へ向かった。僕のファン? さて、いるのだろうか、わからない。だってまだ入部して数ヶ月だからね。既に翼とハル君にはファンがいるけど、それがおかしいんだからね!
「お待たせしました」
 そこにいたのは、可愛らしい女の子だった。緊張している。ハル君はあぁ、と声を上げた。
「この前の子じゃないですか」
 知り合いらしい。女の子はしどろもどろに話し始めた。
「先日は、本当にありがとうございました! 私、病気持ちで、今大学一年生で、なんとか学校通ってて……。でもあの日はとても体調が悪くなってしまって。あの時助けてもらったのに、ろくにお礼が言えなかったから。今日ステージに上がった時は驚きました! ヴォーカルだったんですね。また会えるなんて思ってませんでした。歌、とても感動しました! 綺麗な声で、伸びやかで。私、大学生活やっていける自信をなくしてたんです。やっぱり大学辞めようかなって。でも、あなたに助けてもらって、あなたの歌を聴いて、また頑張ろうと思ったんです!」
 女の子の目はとても輝いていた。ハル君の方は、目が少し潤んでいた。堪えるために口元を結んだのも見えた。
「これからも応援しています!」
 ハル君が手を差し出した。女の子が握手してきた手を、ハル君は両手で包んだ。
「ありがとう。また、聴きに来て下さい」
 女の子が去って行った後も、ハル君はしばらく立ち尽くしていた。

 それから、ハル君に変化が見られた。今まで一切触ろうとしなかった楽器を、触るようになった。本人が主張していた通り、全く弾けないようだけど、拙く一生懸命練習していた。ハル君はとても手先が器用だ。だけど楽器には器用さだけでなく、力もいる。ピアノだったら指の力。ギターやベースには握力も必要だ。ハル君の不自由な左手はやはり上手く動かないようだったけど、ハル君は負けじと練習していた。
 僕と翼と出かけるようになってくれた。翼がチョコクラの活動を広げることに便乗してくれた。表情が明るくなった。僕達といる時、楽しそうな顔をしてくれるようになった。
 そんなある日のこと。三人でカフェにてお茶している時、ハル君はいつになくぼそぼそ喋り始めた。出会った時のハル君はほとんど声を発してくれず、慣れてきてからは明瞭な口調ではきはき喋っていた。口籠るハル君は珍しかった。
「俺が面倒見てる方も、貴方達も、俺に自分を許せと言います」
 しかも敬語だった。
「この前の女の子、実は相方に重なって見えたんです。相方が退院しても、しばらくは普通に生活することができないでしょう。女の子は俺に助けてもらったと言う。しかも、また頑張ろうと思ったと言ってくれた。……それは、相方に対してもできることなのではないかと思ったんです」
 そこから、毅然とした強い口調で話し始めた。
「相方のためと言いながら、俺は自分のことしか考えてなかったのではないか。自虐するばかりで、周囲も見ていなかった。そんなことをしている場合ではないのではないか。俺がしっかりしないで、相方の助けになるのか。まずは俺が立ち直れないと、相方も安心できないのではないか」
 ハル君自身に、強く厳しく言い聞かせているようだった。その目から、ハル君の切れ長の目の奥に強い意志が見えた。そしてまた、ハル君はぼそぼそ口調に戻った。
「……とか何とか考えた訳ですが、俺はそれで、いいのでしょうか」
「それで、いいんです」
 翼もはっきりとした強い、でも優しい口調で返した。
「ハルが自分と相方さんのためを思った行動は全て、正しい」
 僕も一生懸命頷いた。嬉しかった。ハル君が自分のことを話してくれたことも、前を向いてくれたことも。とても、とても嬉しかった。胸が熱く、涙腺も緩んだ。
「ゆっくりでいいんだからね。ゆっくり顔を上げて、前を向いて、歩き出せばいいんだからね」
「はい」
 今まで暗くかげっていたハル君の目に、光が灯った。

 それからしばらく経った後のこと。昼休みに僕は翼と合流して、チョコクラの練習へと向かっていた。練習室の扉を開けると、大音量でエレキギターの音が響き渡った。驚いて持っていたバッグを落としそうになる。
「ハル!?」
 エレキギターの主は、ハル君だった。驚く僕らに構わず、ハル君はまたギターをかき鳴らした。Em。ギターの中でも簡単なコードだ。二本の指で押さえる。次にEm7。先程のEmから一本指を外す。それからEm7/D。これは指を全部外して弾く。それを繰り返す。ぎこちなく弦を押さえる左手とは対照的に、右手のストロークは華麗だった。何となくだけど、ちゃんと音楽になっている。
「今度、このコードだけで歌える歌を作ってあげよう」
 翼が目を輝かせて拍手する。僕も拍手する。
 僕らの反応を満足げに受け止めたハル君は、突然こちらに何か投げつけてきた。
 しゅっと真っ直ぐこちらに向かってきたそれは、紙飛行機だった。僕はキャッチする。紙を開いて、翼と二人で覗き込む。
「青春宣言! 古都野遥亮」
 大きな字で、それだけ書かれていた。右上がりでかちっとしてちょっとくせ字な、ハル君の字だった。
 そして、初めて自ら本名を名乗ってくれた。
「青春宣言!!」
 ハル君は叫び、またギターをかき鳴らす。それは未来への希望に満ちた音色だった。
 それから、ハル君は愛用のスタンドマイクに向かって声を放った。
「俺は今度こそ春依を幸せにしてみせる」
 その顔つきは、強くて優しいお兄ちゃんそのものだった。
「だから俺も、幸せになります」
 目は真っ直ぐこちらを見据えていた。僕らはしっかりと頷き、それから声を上げた。
「ブラボー!!」
 再び拍手をして、
「アンコール!」
 僕らも楽器を出して構えた。ハル君はギターを置き、スタンドマイクを両手でしっかりと掴んだ。
「俺達が!」
 ハル君の合図に合わせて、僕らは叫んだ。

「チョコレートクランチ!!」


 自販機の前で僕に背を向けているハル君。いつかも見た光景だった。僕は出会った頃のハル君、そして前進し始めた時のハル君を思い出していた。


 いつのまにかハル君は僕の目の前に来ていて、すっとペットボトルを掲げた。それから、苦戦しつつも蓋を開けた。きちんと左手でペットボトルを掴んで、蓋を開けていた。
 得意げにこちらを見てくるものだから、僕も思わず笑みがこぼれた。

 僕らの青春はまだまだ終わらない。


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